今年は創作活動をしていきたい。美術にあたり、美とは何か、今道先生の「美について」を読んだ。
今道先生は、美学者でありながら哲学者でもり、これまでの活躍を調べると、日本における美学は今道先生を外して語ることはできないほどの巨星だ。
書籍の文章も美しく、youtubeでわずかに残る講演動画を拝見すると、言葉遣いや佇まいに、美しさを感じた。
まえがきしかり、講演の冒頭挨拶しかり、私もこのような人間でいたいと思う。
芸術作品と対峙する際、知性が求められるように、この本においても、私では浅い部分でしか感じ取れていないが、私のような人間でも、この書籍の魅力を感じる。
現時点での「美」について、思うことを徒然なるままに、ここに残りしておきたい。
CONTENTS
真美善が求められる背景
冒頭「人間が人間たらしめるもの」という小見出しからスタートする。
人間から真美善を取り除けば獣同然で、真美善を自然的な水準を越えているのは人間の特色であると書かれている。
真美善の違いは、インテグラル理論でいえば、外的なものが真であり、内的なもののうち個人が美、集団が善と言える。
これらのバランス感覚をもっておくことは重要だが、なぜ今真美善が求められているのだろうか。
ビジネスの文脈でも、DeNAのウェルクの事件をはじめ、スケールやインパクトといった数値だけを追いかけて、倫理観が溶けてきた。
テクノロジーの進歩も生命工学、サイボーグ工学は、このまま倫理観が溶けている状態では人類の存続に関わる。
地球環境からみても、SDGsでの持続可能性な発展は、倫理観や美意識がなければ進まない。
一個人の人生を考えても、企業に依存してきた人は、何をよりどころにすればよいかわからず、企業を取っ払って自分がどう生きたいのかを考えるにあたり、自分は何が好きなのか、何が大切なのかは美に関連しそうだ。
少し考えても、今の時代に真美善が重要な背景はたくさんある。
美のもつ価値(一部の側面)
その中でも美が重要な背景は何なのだろうか。
今道先生は、20世紀で大戦と殺戮の世紀となったしまったことを反省して、21世紀は平和の世紀にするために、美の実践を通じて「世界美化」を大事にされている。
人間が人間たらしめる真美善のうち、美が中でも重要であり、色んな具体例をもって、美が我々人間にとって、人生にとって、どれほど素晴らしいものかを示してくれる。
本書でも、美がもつ価値が書かれているが、内容は難しいところが多い。わかりやすいところでいうとこういうことだろうか。
・細部まで大事にできる
・自分の喜びに繋がる
・理想を掲げるパーパス、ビジョンに繋がる
・精神そのものを磨くもの
こう書き上げると、私の美への浅はかさが露骨に出る。
美がもつ価値は、これからゆっくりと考え、自分の美や創造力を涵養していきたい。
美の危うさ
美の価値を考えると、美は光のように思うが、先日加藤さんから美にもダークな側面があるとお話を聞いた。
たとえば、サイコパス。人を殺しても何ともない。多様な殺し方で、殺すときの感覚を求め、殺すことへの美がある。
戦闘機をつくるということも、殺戮のためにも関わらず、いかに早く飛ぶか、銃弾はどのように飛んでいくのか、その設計にこだわる美がある。
美の産物には危険なものもあり、美が一概に良い側面だけではないことを理解しておかなければならない。
その側面がある上で、我々は美意識を高めなければならないし、美以外の要素も磨いていかねばならないだろう。
美の発達
美意識を高めるというが、改めて押さえておきたいのは、美は成長するという前提があること。
美というと、何か先天性のように見えるが、大丈夫。美は成長できるのだ。
ピカソを例に出されていたが、美には感覚的に知覚される表面的な美だけでなく、知性がなければ発見されない深い美もある。
加藤さんの著書「能力の成長」に「発達の網の目」というメタファーを使われていたが、美というものも様々な能力が関係し合いながら成長していくことをこの書籍からも感じられる。
美の発達と、人間の器そのもの(意識)の発達の関係性
本書を読むと、美が人間の器そのものの発達と相互に影響しあって発達することを理解できる。
孔子は、芸術が限界を破るとして、芸術を人生の中で学問以上に高い位置づけをしている。
というのも、そもそも我々の世界には、言語を越えた世界がある。
学問は明確に概念を定義できるが、死とか生とか神とか、大きな問題は一義的に定義しきれない。
美には、言語を越えた世界を感じたり表現できたりできる。
たとえば、それを絵によって表現したり、曲やダンスによって表現したり。
インテグラル理論にあるティール、ターコイズといった第二層へは、この言語を越えたものの認識が必要になることを感じると、美の発達が重要であるし、美の発達が器そのものの発達と関連していることがわかる。
ただ、ここで注意しておきたいことは、言葉にならないものをどう捉えるか。
言語にならない世界は2つあり、1つはプレバーバルな世界。
人間が言語で語れるものが、未だその個人として言語化できていないもの。
もう1つは、トランスバーバルな世界。
先ほどあげたような、死や神といった言語を超越するもの。
美が言語化できないことを補完してくれるため、言葉にできないものをなんでも美で片付けることなく、プレバーバルな世界があることから、言語化する努力も我々は意識しなければならない。
美とコーチング
読み進めていくと、今道先生の話の展開が面白く、美を多面的にみていける。
興味深かったのは、美を理解することに関して、美への精神の登高を「解釈」と表現されていた部分。
その解釈とは、換言すると、作品との対話であると書かれていた。
「解釈とは人間関係でいえば対話に当たるようなものであり、分析とは人間関係についていえば、身体検査と戸籍調べのようなものである。」
「作品が秘めている体験及び価値展望と、自己の体験によって深められている私との対話ということできよう。換言すれば、作品は体験の浅い人にはその深さを示さないといけないことになる。体験の深浅は、決して事実体験として自己が体験したか否かという直接性の問題ではなく、意識が捉えるものを我々がどれほど深く理解するか否かということにかかっている。」
どうだろうか。
作品が秘めている美は、こちらの意識が捉えるものがどれだけ深いかにかかっていると書かれているが、これはコーチングそのものも言えるだろう。
コーチ、カウンセラーがクライアントの体験に共感的理解をしめすには、コーチ、カウンセラー自身の意識で捉えるものがどれほど深いものかを問われる。
セッションにおいて、その人のもつ人としての美しさに触れるには、コーチの美のレベルによる。
その点からも美を高めたいと改めて思うし、人以外にも、対話というものを大切にしたい。
内なるものを通じて美を楽しみ、美を高める
そんなことを思いながら、先日加藤さんが創作活動について語ってくれていた。
何も芸術を外側に頼るだけでなく、自らの内面からも生み出せると。
どうも美や芸術は外面に頼ることが多い。
しかし、自分自身が生み出すこともあることを気付かせていただいた。
しかも外面にはない、内面から生み出されたものを通じて起こる治癒、発達がある。
何かこう考えていくと、今年は芸術、創作活動を可能な範囲でやっていきたいと強く思う。
2021年1月17日の日記より
2021年1月24日