この言葉にみたとき、ものすごい深いうなづきとともに、いの一番に浮かんだのは、詩人ハリール・ジブラーンである。
彼の著書は、「預言者」、そのままである。
もちろん彼だけではない。ルーミーやリルケもそうであろう。
その意味で、真に深い文学者は神学者であるし、真に深い神学者は文学者でもある。表面的な活動が異なるだけであろう。
ドストエフスキーは世の人は文学者というが、吉満は、本質においては神学者だとみていた。
神が失われた近代になってからは、文学者が神学者の代わりをつとめたという。
たしかに、感覚的にもわかるような気がする。
しかし、そこに哲学が入るというのは、私にとって少し新鮮な感覚である。
哲学と文学と神学というのは、切っては切り離せない、真には1つであらねばならないもの。
今しがた、吉満義彦の著書を通じてそれを感じた。
若松英輔さんは、哲学者吉満義彦のことをこのように語る。
そして、哲学、文学、神学をこう語る。
神学は、神を探求する。霊性を深めることでもある。
文学は、それらを表現することにある。
では、哲学は?
吉満は、デカルトを出してこういう。
たしかに、この言葉を読むと、カントの4つのアンチノミーも思い浮かぶ。
哲学と神学は、「知る・解る」と「信じる・祈る」と言ってもいい。
哲学は、知を愛する。
それは、行き着く先からみれば、知性と理性の限界を見極めることといえる。ここまでは知性と理性が届く世界であり、ここから先は信じて祈る世界であると。
哲学を深めるからこそ、祈る部分ははっきりしてくるのかもしれない。
いずれにしても、私は、哲学、文学、神学、この3つを同時にみていきたい。
そして、その真ん中には、その3つが邂逅するところに「コトバ」を置きたいと思う。
私の経験を通じた、私の血が通った、私の内なるコトバを、なんとか形にしてみたいと思う。
2022年7月14日の日記より