ILPの4つのコアモジュール、ボディ、マインド、シャドー、スピリット。
もちろん付属モジュールとして他にもあるだが、コアがなぜこの4つなのか。
キーガンのモデルに自己著述段階という言葉があるように、ILPの実践者として、自分の言葉でこれを述べる必要がある。
CONTENTS
発達論的空間(存在の大いなる入れ子、形態形成場)
ケン・ウィルバーは、インテグラル理論の基本として、これまでの心理学を統合して(特に前近代(プレモダン)がもたらした叡智として)、発達論的空間を提示した。
これらは、心理学以外にも、東洋西洋ともに共通した構造として見られる。(ヴェーダンタ学派の鞘、大乗仏教の識、カバラのセフィロト、スーフィズムの魂など)
ILPのコアモジュールもここからきていると思っている。
物理・生命がボディ。心がマインド。魂・スピリットがスピリット。
今までボディ、マインド、スピリットは言われてきたことだが、ここに「シャドー」を加えたのがILPの特徴と言えるかもしれない。
このような発達論的空間からコアモジュールはできている。
仏教思想の観点からみる
ここから今日は仏教思想の観点を補助線に使って考えてみたい。
ブッダの教え「涅槃経」のなかに、悟りに至る重要なものとして「四念処(しねんじょ)」というものがある。
四念処は、以下のとおり
■身念処:身体はいつまでも素晴らしいものではなく、衰えていくもの、不自由なもの(不浄観)
■受念処:外界は楽しいことだけでなく、苦がある(一切皆苦)
■心念処:私の心は変わらずあるものではなく、一瞬一瞬変わっていくもの(諸行無常)
■法念処:私という存在はなく、全てのものは因縁によって生じた実態性のないもの(諸法無我)
この教えは、一般的に我々が考えていることの真逆を述べているように思う。
身体もベースとして衰えるものと捉える。だから衰えに悩むことなく当然のことと思える。
外界は楽しいことと思うが、苦がベースであると思えば、苦も当然に思う。生きること自体、生老病死の苦悩を抱えている。
心も、一瞬で変わり続けるものだから、感情の変化含めて当然と思える。
私というのも絶対的なものとして存在しているわけではないので、執着がなくなる。
このような教えなわけだが、これは私の解釈になるが、ILPの4つのコアモジュールに連動しているように思う。
身念処:ボディ
受念処:シャドー
心念処:マインド
法念処:スピリット
身は、ボディの実践というのでわかりやすい。
受は、多分に私の解釈であるが、ここはシャドーに思える。楽と苦は、陽と陰のように二面性を兼ね備える表裏一体のように感じている。
ルールを守るということは、一方ルールを破りたいという衝動、欲求があるわけで、ペルソナとシャドーはセットになる。ゆえに、シャドーワークは実は終わりのないものであって、やり続けるもの。
心は、マインドでわかりやすい。
法は、自己を越えて、諸法というあらゆる存在は無という、スピリットでの鍛錬によってたどり着く境地である。
2500年前にすでにILPとしての枠組みがあったと言えるのではないかと思う。もちろん、インテグラル理論は東洋思想のみならず、西洋思想も包含しているため、他の観点での説明できるだろう。
ウィルバーのメタ認知の思考をたどるように、それぞれの学びを探求しながら、一方でウィルバーでさえも捉えきれていない面も探っていきたい。(実際見つけられるかは別として、その視点をもって読むことが新たな問いや深みをうむ。)
2021年4月12日の日記より
2021年4月13日