今年になってNPACCさんを通じてナラティブセラピーを学ばせていただいている。非常に奥深い。
昨日も午後から講座だった。
今回は、OWL&R(アウトサイダー・ウィットネス&リフレクション)の練習として、平たくいえばグループカウンセリングみたいなものを実践した。
これが本当に素晴らしい時間になった。
もうなんとも筆舌し難く、深い時間になった。
4人1組で行ったわけだが、エネルギー量は、通常行う2人組のセッションの2倍、いやそれ以上のものがあっただろう。
幸運にも、大変素晴らしい方々との時間を過ごしたわけだが、私個人を振り返ってみれば、昨年より井筒俊彦との出会いが、自身のセッションをとっても深めてくれているように思う。
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言葉ではなくコトバ
厳密に言えば、井筒でなくてもいい。
私にとっては、井筒を入り口だったわけだが、哲学と神学(あるいは詩学)という営みの中に、知性と霊性が涵養されていっているのだろう。
井筒哲学は、いうならば、コトバの哲学。
そもそも言葉というものが、どういう性質なのか。
ここから始めなければならない。
端的にいえば、言葉とコトバは異なっており、言葉は静的で固定化されたもの。まるで剥製のごとく。
コトバは、言葉という剥製にいのちが入り、そこにさまざまな意味が入り込み、動的でうごめく何か。
言葉を通じて、言葉ならないものを汲み取っていく営み。
言い換えれば、言葉を通じてコトバを掴み取っていく営み。
言葉に耳を傾けるのではなく、言葉を通じてこと何ならないものを掴み取っていく。
数年前の私なら、NLPなどを通じて、それを非言語を掴むことだろうという、とても貧弱な理解で受けとめていたように思う。
言葉にならないものを汲み取っていくのは、技法ではない。
いやより精緻にいえば、たしかに、技法はある。
ナラティブセラピーにも、外在化する会話、再著述する会話、といった大変素晴らしい技法がある。
だが、それは便宜上わかりやすく学び合うために概念化されたものであって、それを体現するのは、もはや技そのものにはさほど意味はなく、その技を使う器そのものに本質がある。
でなければ、セラピストは、「ナラティブセラピーの問いかけは、これで問いかけはあっているのだろうか?」「外在化する会話はこういう問いかけなのだろうか?」と思い、そこにクライアントは存在せず、技に溺れるだろう。
ましてや、決まりきった問いかけを生身の人間に適応していくことは、生きた人間を死物化させるような行いようにさえなりうる。
(もちろん守破離の守の流れを通るにあたり、そのまま問いをクライアントに適応して、練習することは重要ではある。)
ナラティブセラピーは、クライアントの言葉を通じて、そこにこぼれ落ちている言葉、素通りしてしまう言葉を拾い上げることで、物語を編み直すわけだが、それはもはや、言葉を拾うことではないように思える。
言葉を通じて、コトバを拾い上げていくことのように思える。
イメージに焦点を当てる
これらは、私のナラティブセラピーの大いなる誤読であるが、OW(アウトサイダー・ウィットネス)チームが行う、クライアントの会話をきいて「イメージに焦点を当てる」というのは、まさに、コトバを通じたイマージュなのだ。
言葉をきいていては、イマージュは現れない。
別の言い方をすれば、頭で理解するのではなく、心で聴く。
もっと大胆に極端なことをいえば、言葉はどうでもいいのだ。言葉を通じて、言葉ならない呻きを聴く。
さすれば、イマージュは立ち現れる。
しかし、実際のところどうだろうか。
昨日やってみて感じたことは、
・自分がセラピスト役でクライアントと関わるのと、
・OWチームとして、ある種、第三者的に客観的にクライアントと関わる
のでは、全く自身の状態は異なる。
後者の立場の方が、圧倒的にイマージュは立ち上がる。
井筒俊彦は、「意識と本質」の第2章において、古典的日本文化の1つの顕著な特徴をなす「眺む(ながむ)」ということを述べている。
眺むことは、言葉という本質規定性を朦朧(もうろう)化する態度である。
これは本当にそうで、OWチームでいたほうが、そりゃクライアントと距離があり、眺むことはしやすい。
一方セラピストは、眺むことはできるが、難しさは感じる。
別にセッションは、イマージュが立ち現れることを目的としていないため、ここは出なくともいいのだが、イマージュが重要になることもある。
OWチームが関わっていくことの意義の1つは、こういったイマージュを場に差し出してみるということであろう。
その点からも、井筒俊彦からいただいたものは実に大きい。
敬虔な態度で迎え入れること
若松英輔さんが、井筒俊彦の「神秘哲学」を通じて、「神秘体験」とはどういうことなのかをこのように言ってくれていた。
あ〜本当にそうだ。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば
ここに「ある」、ここに「存在する」、そのことがとんでもないほど奇跡である。
そして、今目の前にいる人も、過去にも未来にも、この壮大な歴史の中でかけがえのないたった一人の存在であることを深く感じられたら、どれだけ幸せなことだろうか。
そして、それは他者だけでなく、自分という存在にも。
そうなれば、なにか涙でないものが出てくるであろうか。
この世のすべてを敬虔な態度で迎え入れたい。
それが、今の歪な文明を癒すことに通ずると信じて。
2022年7月17日の日記より