いよいよ、今受けている、ジョアンナ・メイシーのつながりを取り戻すワークのファシリテーターの学びを終えることになる。
最後の課題として、1つの詩を紹介することとなった。
食べ物が身体をつくってくれるように、詩が私の心をつくっているように思います。
数ある本、数ある歌の中で1つを選ぶことが難しいように、数ある詩の中で1つを選ぶことはとても難しい。
それでも、今のこの瞬間、選ぶとするならば、私は、J・W・ゲーテの畢生の大作「ファウスト」からとある歌を選びたい。第二部第五幕に登場するリュンケウスの言葉だ。
「ファウスト」という戯曲を読むにあたり、リルケの詩なども訳してくださる手塚富雄先生が私は好きで、手塚先生の翻訳で「ファウスト」を読ませていただいたが、その後、執行草舟さんの訳を見て甚く感動した。
ドイツ語を読めぬために、翻訳がどうなっているのかわからないのだが、執行草舟さんの訳は、もはや良い意味で、執行草舟を通じた言葉として生まれ変わった意訳なのではないかと思う。
リュンケウスの言葉は、瞬く間に、意味深い詩へと転じた。
今回はそれを紹介したい。
CONTENTS
リュンケウスという人物
その前に、リュンケウスという人物を簡単に触れておきたい。
リュンケウスは、塔の物見の役(望楼守)として登場する。
他の人にも見えないものを、見る。
何かが攻めてくることや何か異変があること見たり。
見て伝えることが彼の仕事だった。
この役割が、彼の天命であり、自分の「生命の喜び」として感じている。
リュンケウスの歌
詩の意味するところ
順番に触れていきたい。
まず、「塔に居ることを定め」。
リュンケウスは塔の物見の役を、自らの天命と感じている。
ゆえに、我は、「見るために生まれ来し我」であるし「見ることを命ぜられし我」なのである。
見ることが己の定めとすれば、この世界にあるいろんなものが見えてくる。
そうすると、この世は、実に愉快しく、美しいものである。
世界を見るというのは、簡単なことではない。
それは、単に目で見ることだけではないからだ。
目には見えないものも見ていく。
そこには、人間がとれうる総動員で感じていく営みであり、五感を伴い、時に勇気や使命感をももって行われる。
いわば心の目、心眼で世界を見ていくことに他ならない。
この詩から、見るというのを、「望み」と呼んだり「眺め」と呼んだり、「双眸を濡らし」「双眸を満たす」といっている。
遠くを見たり、近くを見たりする。
それは物理的な距離であるように思えるが、そこには心理的な距離もあるだろうし、時間軸として未来まで含めた遠く近くともいえる。
真っ暗の夜空に浮かぶ月や星の光をみると、涙がこぼれる。森と鹿をみれば、満たされる。
「神秘的なのは、世界が『いかに』あるかではなく、世界が『あるということ』である」とは、ウィトゲンシュタインの言葉ではあるが、心眼でこの世を見つめた時、すべての内(裡)にある、この世が存在している神秘さと邂逅する喜びがある。
それはいうなれば、生命の尊さであり、この世が生命の尊さで溢れ、生命の織り物を感じることでもある。
そして、それがわかると、自分が生まれ、与えられてきたこの境遇、定めに、深い味わいが生まれてくる。
ここでいう、喜びには、悲しみも含んでいる。
日本人は昔、「かなしい」を、「悲しい」とも「哀しい」とも「愛しい」とも「美しい」とも書いた。
それらは、言葉上、概念上、別のもののようにみえるが、表裏一体であり、「悲しみ」を心の奥底で見据えて観ずれば、そこには「愛しみ」や「美しみ」もあり、何かうごめくものとして存在している。
それを悲愛と呼ぶならば、喜びというのは、そういった悲しみを含んだものなのである。
「永遠の恩寵」とはなになのだろうか。
与えられしこの生命、その生命に対する悲愛を含めた喜び、尊さ、それに満ち溢れたこの世界そのものを感ずることではないだろうか。
この世をみる私の両目は、祝福されている。
それは、目だけではなく、リュンケウスだけではない。
リュンケウスのように、この世を見た人間は、自分が祝福されている存在であることを感ずる。
どんなときも、自分が、愛と慈しみによって祝福されていることに。
たとえ、自分が見るもの、経験することが、辛く悲しく感じたとしてもである。
この世はすべて美しいのである。
つながりを取り戻すワークを体験し続けて生まれる感覚
ジョアンナ・メイシーのつながりを取り戻すワークには、4つのスパイラルを回る。
・感謝
・世界の痛みを大切にする
・新しい目で観る
・前に進む
私にとっては、「世界の痛みを大切にする」ということが何より重要なことなのだ。
それはとりもなおさず、「真実を見る」ということであり、リュンケウス「心眼で見る」ということのように思えた。
見たくもないこともある。
見れば、絶望感に苛まれ、時に罪悪感を覚え、とても苦しいものである。
しかし、わたしたちが問題の一部であり、見る義務が、見る使命がある。
つながりを取り戻すワークをやると、不思議と「悲愛」を感じる。
感謝のワークをすれば、感謝の気持ちに溢れるのだが、じつは同時に痛みを感じる。
痛みのワークをすれば、悲しみに溢れるが、そこに希望やパワーを感じるのだ。
とても世界は美しいなんて思えないことの方が多いが、それでも、たしかに「永遠の恩寵」を感じ、この世のために、この生命を捧げたいと思うのだ。
阿世賀という名に込められた意味
リュンケウスの台詞を読むと、私の役割もそれに投影する。
私自身、この生命は、「阿世賀」という名のもとに生を享けた。
「阿」というのは、真言密教における「阿字真言」。
「ア」、すなわち阿字は、すべての言葉の始まりに位置する。
「ア」音は大日如来の口から出る最初の声。
この最初の声とともに、意識が生まれ、全存在世界が現出し始める。
ジョアンナの代表的なワーク、「真実の曼荼羅」のワークでは、始まる前と終わる時に、儀式として、「アー」と声を出す。
それは、いまだ語られぬすべての言葉、いまだ聞かれぬすべての声を意味している。
「世」という字の字源は、十を三つ重ねて字が成り立つ。
親から引き継ぎ、自分の子へ継ぐまでの約三十年が元の意で、幾世代も続く永遠を意味する。
また、世間、世界とあるように、この世そのものを示す。
「賀」の字の由来は、「加」に「貝」を組み合わせて、「豊作の儀礼」「新しい生命を祝う儀式」を表現したため、めでたい意味をもつようになった。
祝賀、慶賀、年賀のように、喜び祝い、喜びを讃える、ことほぐ(賀ぐ)ことを意味する。
つまり、「阿世賀」という字には、
私自身が永遠に祝福された存在であるという意味があり、それは、私がみなと同じ生命であることから、「この世にあるすべてが祝福されたものである」ことを意味し、
「この世にある、いまだ語られぬすべての言葉、いまだ聞かれぬすべての声に、祝福する、ことほぐ」ためにこの生をあずかったのではないかと思う。
ゆえに、リュンケウスの言葉は、まるで私自身を語ったように思え、つながりを取り戻すワークを行うというのは、現代において、具体的に体現する手段の1つであると思うのだ。
私が今だ見えていないことは実に多く、未熟なものではあるが、そのような役割を全うしていきたい。
一緒に学びを深めてきた皆さんへの感謝とともに。
2022年3月24日の日記より