最近、現代社会の闇やタブーと言われているようなものに関心が高くなってきたが、それに関してジャーナリングをすることに憚れる自分がいる。
言いたい自分がいる一方で、言うと社会から干されるのではないか、冷たい目で見られるのではないかという恐れがある。
今は一旦、心を落ち着かせたい。
言いたい自分はどうしているのかというと、危機を感じているからではあるが、それを言ったとて、どうにかなるわけでもない。
それについて、仲間を集めるわけでもなく、具体的に変革していくアクションを今するわけでもないなら、なおのこと。
私の今年のテーマ「人を見て法を説く」ということに立ち返ると、それが必要な場面で扱い、そうでない場面では扱わない。
そのように思う。
また、その人に向けて話す際にも、表現内容の豊かさも重要になる。
この表現内容の豊かさの鍛え方は色んなことがあるが、違う世界に飛び込んでみることを大切にしたい。
そうすれば、そこで体感としてあることを言葉として出せる。
し、そこにある言語そのものを体内に取り込める。
体感をどう言葉にするかで、体感が自分の中でどう解釈されるかが決まり、ここにも言語表現の豊かさが問われるわけでもある。
ただ、体感としてあるものを何も言葉だけで表現する方法もあることも忘れてはならない。
西田幾多郎がいう純粋経験を、それこそ言葉になる前のその経験を、もっと繊細に意識してみたい。
2021年7月19日の日記より