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日記「あじわい」

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カウンセリングの神様、カール・ロジャーズの人生を通じて感じたこと #42

今度ロジャーズを語る会に向けて、「カール・ロジャーズ入門 自分が自分になるということ」を久しぶりに読む。

第一章は、ロジャーズの生涯だけで130ページまで及ぶ。

彼の理論をより正確に理解するには、彼自身の生い立ちやターニングポイントなど、人生そのものを知らないければならない。

もっというと、彼単体だけでなく、時代背景、家族や同僚といった周囲の人や環境へまで理解をしなければならない。その点この章は味わい深かった。色んなことをお話できると思うが、今日私が印象深かったことを綴ってみたい。

「あなたの師は誰ですか?」

晩年、あるインタビューで「あなたの師は誰ですか?」と問われたとき、ロジャーズはこう答えた。

「オットー・ランクと私のクライエントたちです」

この回答は本当にいい。コーチは、クライアントから対価をいただいて対人支援をするが、成長しているのは私自身。

コーチは、クライアントに寄り添う。ときになりきる。クライアントの人生そのものに触れる。

74億人の中で、この人にしかない人生に触れる。

もっと言うと、これまでの人類の歴史の中で何億人もの人が生まれて死んで、それでもこの人にしかない人生がある。

それに触れられると、自分がまるで他人の人生を歩いているような感覚になり、自分が何歳なのかわからなくなるくらい時間が濃厚になる感覚がある

私も言える。私の師匠はクライアントたちだ。この感覚を大事にしたい。

哲学とスピリチュアリティへの探求

ロジャーズは、50歳にして本格的に哲学を学ぶ。

中でもキルケゴールとの出会いを「最もエキサイティングな発見」だと言う。

さらに、70歳を超えたあたりから超越するものを感じ取るスピリチュアリティをトランスパーソナリストとして探求する。

彼が活動していたエンカウンターグループでの経験や妻の死、自らの幼少期から根付いているプロテスタントやそれ以外や宗教への学び等を通じて。その結果、晩年に、中核三原則に「プレゼンス」を加えた。

軽はずみなことを言えないが、発達レベルでいうと、カウンセリングの神様と言われるロジャーズでさえも、70歳にしてティールやターコイズという第二層かそれ以上を超えたのか。

マズローのいう自己実現のさらに上にある自己超越にたどり着いたのか。

思えばネルソン・マンデラも75歳で大統領になり、民族和解をすすめた。

成熟に年齢の因果関係はない。だが相関関係はある。時代を代表する人でも、これくらいの年齢になりたどり着くものなのだろうと改めて思う。

結果に執着しないせず、贈与を込める

ロジャーズは、「静かなる革命家」と言われる。その所以は何だろうか。

考えるだけでたくさんあるが、そのうちの1つとして、ロジャーズは85歳でこのような喜びの言葉を残しています。

「自分はこれまで金儲けのために本を書いたことは一度もなく、ただ書きたいから書いてきただけなのに、その本がこれほど多くの人に影響を与えるなんて驚きだ。」

これを見たとき、全然違う分野だが宮沢賢治を思い浮かべた。

賢治の名作のほどんどは、彼の死後、友人が見つけ出したものだった。自分が売れるために書いたものではない。「雨ニモ負ケズ」は、自分の手帳に書いたメモだった。

ただただ自分のために書いたものだった。これは自分のためでもあったが、ある種の贈与を込めていたのではないかと思う。

ただただ、いつか誰かに価値あるものだと気づいてもらうことを祈るだけ。

結果に執着せず、ただただ贈与を込めるだけ。これが静かなる革命家と言われる所以ではないだろうか。

これを我々の日常に当てはめるといかがだろうか。

よくコーチに、自分の実施したセッションが失敗に終わり悔やまれると相談される。私もうまくできなかったセッションは今でも山程ある。

そもそも失敗と感じているのは自分だけの可能性があるという観点も大事なのだが、何より最善を尽くしたかどうかが大事で、結果には執着しないことが大事だと思う。

私自身、失敗したと思っていたことが半年後連絡を取ると、あのときのセッションのおかげでと聞くことがある。

今この瞬間に価値を感じてもらえていなくても、時間を超えて意味を帯びることもある。

逆にうまくいったセッションでも、自分のおかげでとも思わない。結果は良いも悪いも執着せず、ただただ最善を尽くして贈与を込めることが大切なんだと思う。

自らの生涯を通じて、自分が自分になるを体現した

この本を読むとロジャーズの人間たらしめるものをたくさん感じる。

意外なことに、ロジャーズでさえも家族関係はトラブルだらけで、妻との関係性も悪化。72歳になって愛人をつくったりもしている。

幸之助論でも松下幸之助が愛人をつくっていたことを思い出した。

諸富先生は、批判を覚悟で、これも含めて自分が自分になるということの1つに含まれていたのではないかと言っている。

何をもって自分というのだろうか。自分とは何なんだろうか。少なくとも、人生全体、あるいは人生を超越した中から見ないと見えないように思うし、もっと多面的にみつめてみたい。

2020年11月27日の日記より
2021年1月25日

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