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日記「あじわい」

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13時11分、三田の実家から伊丹の家に戻ってきて、ぽかぽかした陽気に連れられ、川沿いのベンチにきた。

ジャーナル用のPCと、本数冊をもって、心地よい日光に浴びながら今このジャーナルを綴っている。

今朝で、実家にある庭の枝垂れ桜も開いてきた。

実家から駅に向かう途中、三田には至るところに桜があり、なんと豊かなまちなのかと思いながら、その桜も、3日前帰る時に比べると、今日で一気に咲いたことに気付く。

自然の変わりゆく姿をみると、無常がそこら中に横たわっていることを感じる。

日本には四季があること以外に、地震や台風も多く、常に自然が変わっている。

日本人には無意識の内に、こういった自然観、四季観が育まれ、誰もが諸行無常を感じ取れる素質があるのだろう。

今朝も母と二人で食事をとりながら会話をした。
46年務めた会社をあと3日で終える父を思う母の気持ちは素晴らしいもので、母の中にある母性によって、この家が守られていたことを感じる。

と同時に、母と触れることによって、今この瞬間、私の中の母性が育まれていることを感じる。

私自身は、コーチの仕事を本格的にやり始め、ずいぶん母性が育まれていた。今自分が次なる統合的段階にいくには、私の中にある母性と父性の統合への道にあり、その観点で、私は父と話すことを欲しているように思う。

母との会話は、本当に貴重な時間に思う。

他者との会話自体が、新しい視点をもたらせてくれるものだが、親子の会話は、これこそ唯一無二の会話なのだと思う。

母自身も、私との会話をとても楽しんでいるし、楽しみにしているのが伝わってくる。

父と母の血を継ぐ息子という存在と触れることもそうであるし、今となっては私という1人の人間がもつ思想に、独自に息づいているものに触れることも嬉しいのだろう。

おそらく母にとって、私との会話によって、何か自分の中から自然と生成されるものを感じ取っているだろう。

今日も、介護の話から、完全さよりも不完全さが尊いという話や、友人ががんで亡くなった話から、死というものとどう向き合っていくのかという話、どの会話も、母の身近な出来事から哲学的なものへと自然と昇華していき、
私と母の心は、互いに温かいものへと変わっていった。

帰りの車も、ほんの10分の会話だったが、亡き母の母(祖母)の話から
母の顔から温かい涙が出そうになっているのを、助手席で感じ取った。

親子にしか生まれぬものがあることを深く深く、感じる時間だった。

2021年3月29日の日記より
2021年3月30日

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