時刻は、23時45分。
石垣島リトリートの最終日、クロージングを経て、今関西にあるいつもの家にいる。
最終日のできごと、そして、改めて帰ってきて感じることを綴っていきたい。
CONTENTS
6:30 ビーチにてサンライズを迎え、フラ奉納
朝6時30分。
白保の浜へ向かう。
ビーチにて、この2日間、ほんの少しの時間だが、練習したフラを奉納する。
空は昨日に続き曇りではあるが、さほど残念には思わない。リトリートメンバー全員が「サンライズ見れなくて残念」なんて言葉も出なかった。
それは、すべてを受容し、敬意を表し、感謝を伝える存在であることを自然と体現するようなあり方を大事にしているからだろう。
雲1つとっても、地球の表面を覆って、太陽光を吸収して、地球をある程度冷ます役割も担ってくれている。
日が昇るであろう6:50頃、フラを始める。
まずは女性陣から。
始まると、場が一気に神聖な空気へと変わる。
木を叩く音が、広い海に響く。
練習していたときの音とは全く異なる音に聴こえた。
その後、男性陣で奉納する。
その時は、ただただ、海を通じて目の前にある太陽、地球へ向けて踊りに徹する。
最後は、マーペーの上で合唱した祈りを全員で唄う。
すると、それに反応するかのごとく、天使の梯子が現る。
涙を流すメンバーもいた。
9:20 クロージングサークル(チェックアウト)
朝食を経て、チェックインのときと同じように、円になってこのリトリート全体を通じて今湧き起こることを場に出す。
この時間が一番好きだな。
この場の深まり。
一言一言はごくごく限られた表現ではあれど、その人の根底に息づくものに少し触れられる瞬間でもある。
今でも思い出すと涙が出る。
メンバー1人1人のチェックアウトに、その人固有の物語があって、そこからフラートすることを1人1人声をかけたくもなる。
寂しさと愛おしさと清々しさと感謝と。
自然が大好きだけど、やっぱり人間が好きなんだなと思う。
ときおり人間でいることの罪深さを感じることもあるけれど、その罪深さも含めて、それでも人間が好きなんだなと思う。
「 」
今、ジャーナリングをしばらくとめた。
なにやら言葉にすることが、野暮のような気もしてきたからだ。
それでも、言葉にすること、知性は人間が授かった大事な機能であるから、言葉にしたい。
知性(心、思考、感情)では語れない、精神性があることを今回のリトリートを身を持って体験することができた。
これが、近代が失いつつある精神性、日本的霊性を取り戻す今の私にとって本当に大きい経験だったように思う。
しかし、精神性ばかりで、知性が欠如する人を見れば残念に思ってしまう。一方知性ばかりで精神性が欠如していればそれも残念に思う。
双方大切なのである。
言語を超越することがあることをわきまえたうえで、可能な限りで適切な言葉を与えたい。
だから、ジャーナリングを続けよう。
今日のジャーナリングのタイトルだけは空欄「 」にして。
代わりに絵でも表現して残したい。
祈り・儀式・終わる
ひとまず、今立ち上がる言葉は「祈り・儀式・終わる」。
私にとっては、ようやく祈りというものに宿す固有の価値に少し触れたかもしれないと思う。
そして、儀式ということが、場を整え、節目を作る上で重要であることも感じる。
今私が、精神性、日本的霊性を育んでいくにあたり、こういった祈りや儀式も取り入れた実践をしていきたいと思う。
それから、そこに流れる音楽や振る舞いに注目して、自分自身が何かジャーナル以外に、音や振る舞いによって表現していきたがっていることも忘れず残しておきたい。
また、先程チェックアウトが好きだと書いたように、「終わる」ということをとてもとても大切にしたく好きなんだと感じている。
終わるには、寂しさと愛おしさと清々しさと感謝があって、もしかしたら、自分の命が尽きることも、このような感情になるような気がして、死というのも快く引き受けたいという気持ちも芽生えたように思う。
体験させることによって死を与える
それから、改めてだが、異なる地へ行くことの大切さを痛感した。
私という人間は、ほぼほぼ日本文化や制度からできあがっている。
それは、私という人間の魅力をつくり出すものであると同時に、制約をつくるものでもある。
私の主たる関心ごとは、人間の可能性を切り拓くことであり、この作られた魅力と制約、ともに死を与え、新たな可能性をみてみたい。
日本という文化や制度の影響をどれほど自覚的になれているか。
そこから脱するためにどのようなことが必要なのか。
この問いを投げかけておきたい。
そして、そのために有効なのが、日本から離れ、未知を体験させてあげることである。
いきなりは難しいものの、これが確実にキーになる。
言語は後追い
それから、昼過ぎ、関空に帰ってきて、久しぶりに梅田を通ることもあって、本屋に久しぶりにいった。
本屋にいたのは、3時間。
だが、この直近は、実践の中から書物の時間を少し減らしていきたいと思う。
理論は頭の中に残るのみで、あくまで体験をベースにしたい。
体験をなるべく言葉に残し、それらをメタ認知するために理論を補助線にしたい。
そうやって言語を後追いさせたい。
体験するときもそうである。体験する瞬間も、西田幾多郎のいう純粋経験をさせるために、言語を後追いへ。
それが私が自分の命への敬意を表することになるようにも思う。
終わりに
この4日間の体験と、それにまつわるこのジャーナリングは、私の中で重要な財産になっていくだろう。
今回のリトリートのメンバー、関わった方、触れたものすべてに、深く深く、深く深く感謝をしています。
直接的に私が何かお返しできることは少ないかもしれない。
それでも、小さい範囲ではあるものの自分の関わる範囲で、この感謝を忘れず、最善を尽くすことをお約束します。
至らぬ部分はどうかお許しください。
自分の無知さ、無力さはあれど、誠実であり、自分を含めたすべての命に敬意を表し、ただただ最善を尽し、この命を全う致します。
2021年11月14日の日記より