時刻は11:50。今しがた、親愛なるSSCのメンバーでダイアログをした。
今日は私がガイドになってジョアンナのワークを行った。
終わった後、休憩がてら庭へいき、メダカの鉢に大きなカエルがいて、メダカが食べられたのではないかと心配してみると、メダカは生きていて共存していた。
いちじくの木にも毎日のように実がなっている。
そんな庭に癒やされながら、「どうして私は人間として生まれたのだろうか」と思う。
私は地球のどこが好きなのかって、人間からすると一見意図のないような花や植物や木や、小さな昆虫やら庭にいたカエルやら、今も私の傍で鳴いているセミ、多種多様な生物種があって、全体として豊かな水や自然の中で生きていることが好きなのである。
こんなにも生命がたくさんある。
そう思うと、人間は、なんて自分勝手で傲慢で自分よがりの生き物なんだろうと、人間が憎くなる。恥ずかしくなる。
いや、もちろん私がさっきメダカがカエルに食べられると心配したように、自然界に弱肉強食は存在する。
だが、人間はあまりにも力を持ちすぎている。そしてそれを人間のためだけに使いすぎている。
先日のジャーナルでも書いたことだが、どうして人間は、何か食べねば生きられぬような身体なのだろうか。
とやはり思ってしまう。
でも、人間の好きなところをあげれば、それは心と創造する力があること。
心といっているのは、色んな感情をもちながら知性があること。そして、そこから何かを創り出すことができること。
食べることも、命を奪うということの痛みを感じるために、生まれもったものなのかもしれない。
今私たちが幸せと感じていることも、それはごく一面からみたものに過ぎず、やがてそれが幻想であったことに気付く。
自我に問われた人間のすべての行いは、それが幻想であることに気付かせてくれるためにあるのかもしれない。
その上で、人と人とをつなぐことはもちろん、自然への畏敬と共存、生きとし生けるものが共存できるような世界を創造するために生まれてきたのかもしれない。
地球にある生命の織物を織り続けるために人間はいるのかもしれない。
そんなふうに思うし、信じたい。
2021年9月10日の日記より