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日記「あじわい」

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「世界は恋人、世界はわたし」第一章を読んで#376

今しがた、ジョアンナ・メイシーの「世界は恋人、世界はわたし」を読んでいた。

そこでの気付きを残しておきたい。

4つの世界の見方のコンテンツとストラクチャー

第一章に、4つの世界像=世界の見方が書かれてあった。

(1)戦場としての世界
(2)罠としての世界
(3)恋人としての世界
(4)自己としての世界

(1)戦場としての世界というのは、善と悪とがせめぎあい、光の勢力が闇の勢力と戦う世界観のこと。

文字通り戦争はそうであろうが、勝ち負けの世界観は至るところにある。

たとえば、競合に勝ち、市場シェアを奪うビジネスもそうだろう。

だが、ここは1つ注意がいるように思う。

これは、発達理論でいわれる「コンテンツ」と「ストラクチャー」をわけて理解することが重要になるだろう。

ビジネスという「コンテンツ」それ自体に勝ち負けの世界観があるわけではなく、それがどのように認知し、意味づけ、活用しているか、というその人自身の世界観(ストラクチャー)を見極めることが重要になる。

ビジネスにも、勝ち負けの世界観で経営されないものもあるからだ。

ビジネスだから、お金だから、資本主義だからと、それにまつわるものを安易に「戦場としての世界」と捉えることは注意が必要に思う。

ビジネスにも、お金にも、資本主義にも、後にある恋人としての世界、自己としての世界のもと取り組めるのだと思う。

罠としての世界からの脱却

今、私がなぜジョアンナに魅力を感じているのか。

それがまさに、自分自身がこの「罠としての世界」に陥っているように思う。

内面的(スピリチュアル)な道は、戦いや仇敵の征服ではなく、自分の開放し、この世のしがらみから逃れることをめざす。

自己の救済と、現象界を超えた高いレベルへの上昇を試みるわけだ。このような姿勢は、精神を物質より上位に、魂を自然の上位に置く階層的なリアリティ観に基づいている。この見方は物質界を蔑視をうながす。

こうした要素は、教義の違いに関わらず、過去三千年間のあらゆる大宗教の中に見られる。

世界を罠とみなし、自己の解放と社会の変革を別建てにしても、苦しむものたちを助けようという慈悲の心をもつことはできる。その場合は、個人的な問題と政治的な問題とを順序だてて見やすい。「社会運動はまず自分が悟りを開いてから」ーー。
内面的な探求にたずさわらない人たちだと、少し表現が変わってくる。
「まず頭を整理して、精神分析を受けて、抑圧だのノイローゼだのこだわりだの克服して、それから元気よく運動に参加しよう」と。世界と自己とが本質的に別々だと思いこんでいるために、一方を癒す前にもう一方を癒すことができると想像するのである。

ケン・ウィルバーの四象限で表現される、内面(目に見えないもの)と外面(目に見えるもの)のうち、近代以降の科学主義は内面を外面にしてきた(=微細な還元主義)。

次第に、外面の引力が強まる。

一方、神秘家たちは、逆で、外面を内面へ還元してきた。

しかし、いずれもどちらかを真に統合できているかという点では片手落ちで共通している。

私自身、ここ数年、内面へ内面へと探求してきたが、外を分離してしまったのではないかと思う。

これから徐々に、外へ外へ、自分の探求を、エネルギーを向けていきたい。

自分というストラクチャー

それから、個人的に大事なことに気付かされた。

今月まで、発達理論マスターコースにて、規夫さん、加藤さんから、理論と向き合う上での姿勢を教わった。

それは、ウィルバーの言葉にあるとおり、「正しいが一部に過ぎない」とあるように、どの理論にもそこにある魅力と同時に、限界や盲点が存在していること。

私にとって、仏教というのは、どうも内面世界にとどまっているのではないかと、周りの住職さんをみても強く感じていた。

まさに、さきほどあげて「罠としての世界」にいる感覚。

しかし、この文章を読んでハッとした。

「欲望や欲望を燃え立たせるあらゆる行為を超越しよう」ーー。となれば、てんやわんやの社会変革からはどうしても身を退きがちだ。私の友人の仏教徒の中には、無頓着を、世界から自由になってその運命には関心を向けないことだと理解しているらしき人たちがいる。彼らは、仏陀の教えたのは自我(エゴ)からの脱却であって、世界からの脱却ではないということを忘れている。

私はどうも仏教というのを捉え間違えていたらしい。

そして、私がみてきた仏教徒もそうなのである。

つまり、ここにも、コンテンツとストラクチャーがある。

その人が、仏教をどう捉えているか、どのような世界観で活用しているか、によって異なる。

結局の所、私がその理論の魅力と限界を見ようと、今の私のストラクチャーに限定されてしまっている。

ゆえに、その問いはずっとあり続け、私は応え続ける必要がある。

一度気付いた知に固執することなく、変わり続けることを前提に新しい目で向き合っていたい。

2021年12月31日の日記より

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