ここ1年を振り返っても、インテグラル理論(心理学)の探求する仲間がにわかに増えている。
今日、新たに敬愛するコーチに声をかけて一緒に探求することになった。どうなるかはわからないが、新しい探求仲間が増えてとてもワクワクしている。
改めて、その友人に私がインテグラル理論に傾倒する理由を話した。
いろんな観点から話すことができるのだが、コーチとしての私という観点で、改めてここに綴っておきたい。
人は、いろんな理由から、「自己成長」を求めたり、あるいは逆に(あるいはその一環として)「ありのままの自己」を受容しようとしたりする。
いろんなサイコセラピー、コーチングというのは、他者に対してそういったことを支援できるものになる。
様々な心理学をベースに、多種多様なサイコセラピー、コーチングがある中で、それぞれに特徴がある。
そのうちどれか1つを身につけるだけでも、誰かの役に立てられるし、嬉しい。
ただやっていくと、時にクライアントさんの本当に深いものはうまくセッションできなかったりする。
あるいはAさんにはうまくいくが、Bさんにはうまくできなかったりする。
理想をいうならば、自分と関わる方には、どんな問題であっても、できる範囲で何か力になりたい。
そう思って、学んで実践、学んで実践するが、やればやるほど、自分のあり方そのものに課題があることに気がつき始め、1つや2つのアプローチでは効果的なセラピーが提供できないことにも気がつき始める。(もちろん、1つのアプローチでも単にその熟練度が足りないという点もある)
それ以来、
(1)自分のあり方を磨くこと、
(2)たくさんのサイコセラピー使いこなすこと
にますます関心が強くなっていった。
(1)自分のあり方に関して、自分のあり方がどうなっているのか。
成人発達理論などの西洋心理学をあたりながら、一方で仏教などの東洋思想、神秘主義的なもの、哲学の中でも隣接するもので探求し始める。
どれも正しいように思いながらも、何が共通していて、何が異なるのか、よくわからないままにいた。
それを体系化してくれたのがウィルバーだった。現在私が知っている範囲の中では、インテグラル理論がもっともホリスティックなもので根源的なもののように感じている。
いまだ理解できていないことが多いのだが、どうやらたち現れる問いは、心や魂なるものはどういうものなのか、人の存在の本質とはなにか。
そんな存在論に応える必要まで出てきた。
(2)たくさんのサイコセラピー使いこなすことに関しては、相手の状況によって自分なりに使いこなすが、その使い分けは曖昧。
使い分けが明確にわかるようになるには、
(a)クライアントがどういう状態なのか
(b)各サイコセラピーの特徴(何が共通で何に差異があるか)は何か。
(a)に応えるには、ここでも自分のあり方で見たように、最終的な問いとして、心や魂なるものはどういうものなのか、人の存在の本質とはなにか。に応える必要が出てくる。
そして、(b)はメタ的に捉えることが必要のようになる。
結局のところ、(2)のサイコセラピーを使いこなすためにも、インテグラル理論が必要に感じた。
いまや、インテグラル理論を心理療法に落とし込んだマーク・フォーマン先生のインテグラルサイコセラピーなども出てきた。
インテグラル理論は理論書であり、実践的でないと思われている。
しかし、実際のところ、理論書でありながら実は実践書でもある。
まとめると、私の関心のある
(1)自分のあり方を磨くこと
(2)たくさんのサイコセラピー使いこなすこと
ここに向かうには、インテグラル理論が必要になったために、傾倒するようになった。
ただし、あえてここに反論とうか、建設的に批判するならば、私の関心のあるテーマは、もはや他者がどうこうできる問題ではないのかもしれない。
たしかに西洋心理学の技法は、多くのものは、心身統合、自己実現までを目指すもの。
そこからさらに東洋的、超越的技法は、もはや人生をかけてやるものであり、セッションの場ではちょっとした味わいを感じ取るだけに過ぎない。
そう思うと、吉福伸逸さんの言葉が残っている。
セラピーを辞めた。
自然界にいたほうがよっぽど癒しが起こる。
人為的に治癒を促すよりも、癒やす癒やさぬもなく、ほっておけばいい。
この言葉を思い出す。
それでも私が探求をやめられないのは、セッション自体がクライアントのためでもありながら、同時に自分の好奇心のためでもある。
人の内面にある、ものすごく深遠で美しいものに、もっともっと触れていきたい。知りたくて仕方がない。
いまだその欲求が私の中で強烈にあり、それが私のもっとも大きいエネルギーになっている。
2021年7月3日の日記より