人間は、なにか過去の自分、過去の発達段階を抑圧する傾向があるのではないかと感じる。
発達理論においても、「the higher the better」という高ければ善いという言葉ゆえに、過去の発達段階であるレッド、アンバーをないがしろにして、自分にないものとして扱ってしまう。
かつての自分より成長しているために、かつての自分が抱いた欲求はもうないと思い込んでしまっている。
しかし、構造主義や社会構成主義で人間をみると、構造や関係性によって出現する自己は変わるように、すべて自分の大事な要素として息づいている。
それがとっても人間らしいようにも思う。
こういった抑圧していたかもしれない欲求を解放するトレーニングとして、武道やカラオケや演劇などがよく挙げられる。
ポイントは、身体と感情を伴うものだろう。
ボディサイコセラピーでも、トラウマは心ではなく身体にあるといわれてもいる。身体は思考では騙せない。
私自身でいえば、最近セックスという実践が何よりの重要な実践のように感じている。それは日本社会の集合的なシャドーといえる。
ここでは仔細省略するが、私自身も、セックスにシャドーワークとして側面があり、自己の中にある愛と裏腹に、凶暴さが孕んでいることを感じ、何よりの実践のように思える。
2021年12月4日の日記より