Journaling

日記「あじわい」

Journalingトップ

セッションを通じて感じる言語の繊細さ#371

今日もクライアントとのセッションを3回した。

どれもとても有難い時間だった。

どれもセッションで生起されることが本当に新鮮である。

そこには、クライアントの美意識に触れている感覚がある。

究極的にその人らしさというのは、その人の美的感覚に宿っている。

それは、セッション中出てくる言葉だったり、表現だったり、出るものすべてに出ている。

言葉には類義語があり、この言葉でなくてもいいのに、どうしてこの言葉を使うのだろうか?

どうしてこのようなメタファーを使うんだろうか?

そう自然と感じることがあるが、それは疑問としてあるだけでなく、どちらかというとそう思った瞬間はちょっとした感動で、ここにこの人らしさを感じ、その人らしい美的感覚を感じる。

たとえば、今日出たセッションにおいても、仔細は守秘義務で言えぬものの、

「今この瞬間、命を味わおう。大事にしようではなく、味わおう。」

という言葉が出てくる。

ここでも、なぜ「大事にしよう」じゃなくて「味わおう」なのか。

そこはセッションという限りある時間では聴けなかったものの、おそらく文脈の中からクライアントが意味づけていることは、大事にしようだと、大事にできていないから大事にしようという力む感覚がある。

あじわうの中には、たとえ大事にできていかったとしても、きっと意味があり、そこも含めてその人のリソースになっていく。だからあじわえる。

こんな意味合いがあったのではないだろうかと思う。

あくまで一例であるが、こういったことがセッション中多くある。

私自身もまるで詩を楽しむかのごとく、クライアントから出てくる言葉のひとつひとつをまさにあじわうように受け取る。

そこにどんな文脈の中に、どのような意味が生じているのか。

セッションの冒頭はもちろんわからず、話を深めていく中で、言葉にできぬものも含めて汲み取れるようになっていく。

そして、今書きながら、今私がこれを書けている事自体も、私自身がそういった美的感覚が養われつつある変化に気付く。

それも含めて、今日も有り難い時間をいただいた一日だった。

2021年12月26日の日記より

アーカイブ

LOADING...