発達理論のマスターコースを受講している中、美がテーマになった。
改めて、美はなにか。徒然なるままに書き始め、可能な範囲で対人支援という文脈に引き寄せて考えてみたい。
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美の要素
「美」とはなにか。そう問うと、まず浮かぶのが、哲学者であり美学者である今道友信先生だ。
美というと、芸術が紐づくがそれだけでなく、芸術は美の1つに過ぎず、美は自分の中では、
・自分の喜びに繋がるもの
・言語を超越した精神性を育むこと
この2点が色濃い。
しかし、美単体で鍛えればいいかというと、そうではない。
「真善美」の善、いわゆる倫理がなければ、人を殺すことに喜びを感じるといった誤ったように美が磨かれていく可能性を孕んでいることから、絶えず、美以外も磨く必要性がある。
美への実践の2つの方向性
「美」を実践に引き寄せると、2つにわけられる。
(1)絵や踊りや音楽や自然といった、「自己の外にあるものと触れていくこと」
(2)絵や踊りや音楽という手段にて、「自己の内に息づくものを表現すること」
(1)「自己の外にあるものと触れていくこと」
こちらは、とある優秀な音楽家が、譜面通り演奏するだけでなく、「演奏を通じて、あなたは何をお客さんとコミュニケートしたいのか?」と問われるように、芸術は、表現者と鑑賞者との対話である。
絵であっても、音楽であっても、詩であっても、踊りであっても。
そこに直接的に言語化されていないものを含めて。
しかし、なんらかの作品は、わかりやすく何かを話してくれるわけではない。厳密には作品は絶えずメッセージを出してくれている。それを秘めている。
その対話は、受け手である私の意識が捉えるものがどれだけ深いかにかかっている。
対人支援の場においての美
対人支援の場においても同様のことが言える。
クライアントが言語として発することなど、潜在意識を含めれば氷山の一角に過ぎないし、ほとんどは真のクライアントの声ではない。
まだ言葉になっていないが、真のクライアントの声は何なのか。
こことの対話は、まさに芸術との対話とも似ており、対人支援がサイエンスでもありながらアートの要素がある部分はまさにここにあると思う。
今書きながら思い出したが、「現代アートとコーチングの共通点」で述べたことはまさにそういうことである。
自己に息づく美
(2)絵や踊りや音楽という手段にて、「自己の内に息づくものを表現すること」
一方、自らの内にあるものを表現すること。
私自身は、加藤さんに触発され、日記、油絵などを始め、この営が自身の声を対話することをしている。
声にならない声を聴くために、自分自身の声にならない声を聴く営みになっている。
自分でも何が自分のvoiceかわからぬものの、なにか表現できた喜びは非常に大きく、毎日欠かさないものになっている。
こういった点から、美というのは、
・自分の喜びに繋がるもの
・言語を超越した精神性を育むこと
になっていると思う。
何に美しさを感じるのか?
ここまで書いてみて、つまるところ、対人支援の場において、美というのは、本人に息づいている固有のもの(声)といえる。
以前、私が葛藤し、もがく姿が美しく感じると思ったのは、その姿が、その人固有の人生を歩もうとしているからである。
しかし、これは私個人の美的感覚なのだろうか?
あるいは、人類共通の感覚なのだろうか?
芸術領域でもスポーツでも、我々は共通して美しいものに触れると感動する。
そう思うと、共通した美があるように思う。
もし人類共通の感覚なのであれば、対人支援者にとって、クライアントの声に美しさを感じなければ、これは致命的になるのではないかと言えるかもしれない。
そう思っていると、アートセラピーをされている探求仲間が、こんなことをいっていた。
私自身がアートセラピーの世界に足を踏み入れた時、「アートセラピーにおける作品には美的要素は問わない」という言葉に出会いました。
「アート=(上述の一般認識としての)美的なもの」ということに対するアンチテーゼから来ていたものなのかもしれませんが、「美」の定義そのものについても論じられることなく、そのように言われていることに、大きな違和感を覚えました。
「美」に注目しないなんておかしい、そう思って必死で文献を探し、唯一、表現アーツセラピストの故パオロ・クニル博士の理論の中に扱っていたのを見つけることができ、美的なものとの出会いが人を癒す、というパオロ博士の考え方は、私の今の仕事に大きな影響を与えています。
私自身も振り返れば、何かクライアントの声を聴いた時に、感動して涙することが何度もある。
それはグループでのセラピーにおいても、全員が涙する。
そう思うと、固有のものに触れるというのは、共通した美ではないかと思う。
感動
書きながら、感動というのが1つの美のキーワードかもしれない。
自分自身、年々、涙もろくなっている。
それは人に限らず、何か目の前の現象が一期一会のもので、当たり前のものではないと思える瞬間が増えたように思う。
そう思うと、自分自身の美的感覚も、無意識な部分で育まれているのかもしれない。
美が導く
また、私は、複雑なものをシンプルに表現しているものにものすごく感動する。
書籍でいえば、ウィルバーはそうだし、最近の日本人の本でいえば、近内さんの本や、太刀川さんの本もそう感じた。
また、この現象は映画や生き物にも感じる事が多い。
それは、自分自身も一表現者としてそうでありたいと思っているところがあり、何か美的感覚が、自分のありたいものへ導いてくれるようにも思う。
2021年12月7日の日記より
12月10日公開