グロービスで一緒に学んでいた友人が月1回、セッションを受けに、わざわざ、我が家に来てくださる。
今回はいつもと面持ちが違った。
がんの可能性が出てきて、これまでないほど、死を間近に感じていたのだ。
表層意識では、それを考えないようにしつつも、深層意識では、そのことで充満しているかのようだった。
そして、彼はこれまで悩んでいたことは、どうでもよくなったという。
いやもちろん、どうでもいいことではないのだが、確実に景色が変わっている。
それほどまでに、ある意味において、死はすべてを奪い去る。
この逃れられない事実を目の当たりにすると、人は実存的危機に陥る。
こういう時、私はたいてい、セッションをやめて、自然を感じられるところで、雑談をはじめる。
しかし、今回の件は、私にとっても衝撃は大きい。
死というものは、これほどまでに頭ではわかっても、体感として感じにくいものはないように思う。
今回のことを通じて、いくつか湧き起こったことを残しておきたい。
残すプロセスを通じて、少しでもいいから死と膝を突き合わせたい。
CONTENTS
死が何かに覆い尽くされてしまった現代
思えば、現代というのは、いかに生きるかだけを考えるようになってしまった。
死というものが、何かに覆い尽くされてしまったかのごとく。
本来、生と死は分つことのできぬものにあるにも関わらず。
それゆえ、死というものが実に多次元的、多義的であるにも関わらず、どんどん短絡的、単一的な捉え方になってしまい、より恐ろしいものとして遠ざけられてゆく。
私たちは常に死と隣り合わせでいる。
今はコロナ危機と言われるが、本当の危機というのは、死を忘却していることではないだろうか。
自分として・・・
今日ふと、たまたま手に取った、リルケの「マルテの手記」には、冒頭、このような文章から始まる。
なんと深い文章なんだろうか。
ここでいう死は、自分として生きることではなく、誰かのように生きていくことだろう。
私たちは、生まれてから大人になるにつれ、さまざまな価値観や世界観を内面化してきた。
社会に、文明に、時代に適応するかのごとく。
しかし、死はある意味においてすべてを奪い去る。
その時、人は初めて、一人の人間として、生を預かり、生まれて死んでいくということがどういうことなのかを考えることになる。
これまで内面化してきたものをすべて剥ぎ落とされて、真の意味で裸になったとき、人ははじめて自分と出会う。
私は、彼との対話のあと、帰り際、1つの詩集を贈った。
私が大切に愛読し続けた、若松英輔さんの「美しいとき」。
彼は、翌朝、彼自身の日記と、「美しいとき」に載っている3つの詩を、私に共有してくれた。
その3つの詩は、このような詩だ。
私がわたしに出会う旅
まぼろし
祈願
いのちの秘儀
私も、いい年齢にして、いまだ死を忘却する愚か者である。
現代文明は、絶えず、わたしたちを幻の世界に包み込む。
一人の価値を量化しよう量化しようと押し付けて来る。
それに飲み込まれてはならない。
あなたがどう生きるべきなのか、わたしもわかりたいと思うが、わたしにはわからない。わかるはずがない。
自分の生の意味は、自分以外、誰も解き明かすことができない。
いや、どうだろうか。
より厳粛にいのちを見つめてみれば、自分にさえもわからぬほどに、大きなものがこの世に広がっているようにさえ思える。
死は、新生の証なのだから。
ひとりの友として、ひとりの人間として、
どうか、どうか、このいのちを生き抜いていこう。
2022年8月1日の日記より