前回の本の旅を経て、今年は大人向けの絵本も読もうと、本屋にいくと必ず1冊は買うようにしている。
加藤洋平さんは最近詩にハマっている模様。
人間の意識が言語に縛られているため、言語を変容させることが意識の変容に繋がる。詩人特有の言語に触れることで、言語世界を拡張するのにいい模様。
絵本は、詩とは違うが、少ない文字で表現することから、洗練さを感じる。
文字が多くないことから、1つ1つの言葉を丁寧にひろう。
自分の体の中に、一滴ずつ言葉が落ちていき、言葉の意味や響きが心に染み込んでいく。
今日読んだ「葉っぱのフレディ」も、命そのものを扱うから、とても染みてくる。
本書では、最初に編集者からのこんなメッセージがある。
この絵本を自分の力で「考える」ことをはじめた子どもたちと、子どもの心をもった大人たちに贈ります。
わたしたちはどこから来て、どこへ行くのだろう。生きるとはどういうことだろう。死とは何だろう。人は生きているかぎりこうした問いを問い続けます。
この絵本が自分の人生を「考える」きっかけになってくれることを祈ります。
この本は、アメリカの著名な哲学者レオ・バスカーリア博士が書いた生涯でただ一冊の絵本です。
話は人間ではなく、葉を主人公に展開する。
春夏秋冬を通じて、葉として四季を楽しみながらも、最後は葉が散っていくところまでの生涯を描く。
途中、死におびえるセリフや、死を受け入れる様子がある。
この本で、印象的だったのは、次の言葉。
「ぼく、死ぬのが怖いよ。」とフレディが言いました。
「そのとおりだね。」とダニエルが答えました。
「まだ経験したことがないことは、怖いと思うものだ。でも考えてみてごらん。世界は変化し続けているんだ。変化しないものは、一つもないんだよ。
春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春から夏になるとき、怖かったかい?緑から紅葉するときこわくなかったろう?
僕たちも変化し続けているんだ。死ぬということも変わることの1つなのだよ」
変化するって自然なことだと聞いて、フレディは少し安心しました。枝にはもうダニエルしか残っていません。
「この木も死ぬの?」
「いつかは死ぬさ。でも”いのち”は永遠に生きているのだよ。」とダニエルは答えました。
著者の死生観を反映したメッセージがここにあるように思う。
万物は絶えず変化して、死も変化の1つに過ぎない。
死は自然の摂理で、循環の1つであり、命そのものは永遠である。
もののけ姫のシシ神様を思い出す。
そして、ここにホロン(=それ自体で完結した全体でありながら、同時により大きな何かの部分である要素。)がうまく表現されている。
葉っぱのブレディも、葉という1つの命でありつつも、木という全体としての部分である。
人間も同様。分子は、全体としての細胞の部分。細胞は、全体としての生命体の部分。
しかし、人間は自分という全体であり、何の部分なのだろうか。
ここを感じ取るのが自己超越なのだろうか。
フレディの死に際、こんな表現で描かれている。
明け方、フレディは迎えに来た風にのって枝を離れました。
痛くもなく怖くもありませんでした。
フレディは空中にしばらく舞って、それからそっと地面に降りていきました。そのとき、はじめて木の全体の姿を見ました。なんてがっしりしたたくましい木なのでしょう。これならいつまでも生き続けるに違いありません。
フレディはダニエルから聞いた”いのち”という言葉を思い出しました。”いのち”というのは永遠に生きているのだ、ということでした。
フレディにとっては、死に際、木全体をみて安堵する。
ここに、自分より上位のホロンの存在を認識し、自己超越的な感覚になったように見える。
そして、話は枯れ葉のフレディが肥料となるところまで描かれる。
仏教思想に「四有」という考えがあるが、誕生から生まれ変わりまでのプロセスを同じ1つのいのちと捉える。作者の死生観と同じように思う。
読み終わると、悲しいような切ないような、だけど満たされていく感覚もある。私にとって、心を癒してくれる時間になった。
2021年1月12日の日記より
2021年1月14日