今しがた、井筒俊彦のドキュメンタリーを観た。
2019年、NHKドキュメンタリー/BS1スペシャル「イスラムに愛された日本人~知の巨人井筒俊彦~」だ。
あまりの感動に胸が熱くなる。
1回では足らず、2回連続みて、なぜか自然と2回目はすべて文字起こしをした。
映像が見れなくなったとしても、文字だけでも何度も何度も見返したいと思ったからかもしれないし、言葉を大事にする井筒さんだからこそ、この言葉をわずかながらトレースしたかったのかもしれない。
私の中から、「東洋哲学」なんて言葉を発することに、一抹の躊躇が生まれた。
井筒さんの「東洋哲学」は、まさにケン・ウィルバーのメタ理論のように
・インド哲学
・仏教
・ユダヤ教
・ギリシャ哲学
・イスラム教
・老荘思想
これらをメタ的に捉え、一段上で「東洋哲学」としてまとめようとされたのである。
それはあまりに偉大な功績で、畏敬の念にあふれる。
井筒さんのすごさは、司馬遼太郎が井筒さんのことを「常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと」語るだけあって、とても人間に思えない。
類まれな能力は、ウィルバーのように比較し一段高くまとめあげるメタ認知する洞察力と、30以上の言語を流暢に操るところにあるように思う。
「意識と言葉」というテーマにおいて、井筒さんを超えるような人がいるだろうか。
言語論的転回からすれば、言葉は与えられた世界を単に表象するものではなく、世界を創造し構築することに関わっているものである。
それを学生時代から感じ取た井筒さんは、言語にこだわった。
各宗教、各哲学を、その原語から感じ取っていた。
その意味で、井筒さんが訳されたコーランは、この先日本において大事にされ続けるだろう。
ふと思う。井筒俊彦という人物をここまで突き動かしたのは、なんだったのだろうか。
ドキュメンタリーをみるに、中学の頃、言語によって世界の切り取り方が全然違うことを発見し、「世界中の言語を1つ残らずものにしてやろう」という情熱は、井筒さんの純粋な好奇心だったように思う。
その後、出会う言語、出会う思想・哲学に感銘を受けてゆく。
私の想像ではあるが、幼い頃から、父から禅に通じる独自の内観法を経験してきたことが原体験として大きいように思う。
西田幾多郎のいう純粋経験を、子供ながらにして行っていたのではないかと。
この好奇心は、こういった純粋経験から、人一倍、物事に心奪われ感動するのではないだろうか。
その後、戦争へ出兵すること、10年住んでいたイランがイラン・イラク戦争が起きたこと、こういったことから、世界をつなぐ哲学を試みていったのだろう。
来週には、2018年イランで映画化されたドキュメンタリー映画The Eastern(シャルギー)のDVDが届く予定である。
楽しみで仕方ない。
最後に、井筒さんの言葉をいくつか残して、このジャーナリングを終わりたい。
「東西の哲学的叡智を融合した形で、新しい時代の新しい多元的世界文化パラダイムを構想する必要が至るところで痛感されている今日の思想状況におきまして、
もし東洋哲学に果たすべきなにがしかの積極的役割があるとすれば、それはまさに東洋的「無」あるいは「空」の哲学が、
アンチコスモス的コスモス※いわゆる「柔軟なコスモス」の成立を考えることを可能にするということころから出発する新しい思想の転回であるのではなかろうかと私は思う次第でございます。」
※コスモス:西洋的物質世界
※アンチコスモス:東洋的精神世界
86年の講演「コスモスとアンチコスモス」より
「我々が人類文化のグローバライゼーションの理念を信じ、「地球社会」の理想的な形での形成に向かって進んでいこうと望むのであれば、何よりもまず我々は、我々自身を作り変えなければならない。」
著書「意味の深みへ」(1985年)より
2022年1月18日の日記より