気づけば少しずつ遠藤さんの著作が増えたきた。
しかし、自分が今なぜここまで遠藤周作に惹かれているだろうか?
不思議で仕方がない。
かつて読んでいた頃よりも、全く異なった情熱と深みをもって出逢い直している。
それは、遠藤さんに近しい方々、井上洋治、吉満義彦、堀辰雄、井筒俊彦、河合隼雄、正宗白鳥などなどにも、浅い理解ながら触れてきたこともあるだろう。
私を遠藤さんへと突き動かす何かは、
それは表層的には、単に、文学をより深く汲み取りたいことはある。
遠藤さんの作品はもちろんのこと、芥川龍之介、太宰治、中原中也、小林秀雄、日本の外に向けても、ドストエフスキー、カフカ、トルストイなど。
そして、どこかキリスト教そのもの関心もあるにはある。
尊敬する方々、たとえば中村哲さん、若松英輔さん、今道友信さん、など、共通してクリスチャンであることも大きい。
だが、それ以上に、深層的には、
やはり「霊性」を取り戻すことへの願いに他ならないように思う。
近代以降、グローバルサウスや環境問題といったさまざまな問題は、霊性が失われたことに対する危機意識がある。
日本なんて特にひどい。
オウム真理教があり、統一教会の問題もあがり、
あんなものは宗教ではないが、これらの悲劇によってどんどん失われていっている。
本当は、今こそ真の意味での宗教を誰かが語らねばならないし、問わねばならない。
だが、私は本当の意味で宗教や霊性を到底わかっていない。
そんな中、弁証法的に霊性を深めるために、今自分に遠藤さんがいるように思える。
弁証法的というのは、
1つは、自分に馴染みがない、異なる宗教に触れること。
私にとっては、やはり、井筒、西田、大拙をはじめとした仏教、東洋思想のほうが馴染みがいい。
しかしだからこそ、自分には異質のものに触れていくことで深めたい。
ティクナットハンが仏教のみならず、キリスト教を深めたように。
もう1つは、霊性や宗教を批判的にみること。
遠藤さんは、批判的な観点をくれる点で、今のわたしにとっては入りやすいようだ。
遠藤さんは、本当に偉大な人だ・・・
2022年9月8日の日記より