宗教との向き合い方について、それこそ多次元的、多義的に、あらゆる観点から言えることがあるように思うが、今しがた批判的実在論を学んでその問いに応えるための言葉を紡ぐならば、それは誤謬をおかさず、あるべきものをあるべき場所に位置付けることが、宗教や科学とを問わず、現代に求められているのではないかと思う。
たとえば近代以前は、多くを宗教へ還元してしまい、近代以降は、多くを科学へ還元してしまった。
もう少し一人の人間に引き寄せるならば、ボディ、マインド、スピリット、それぞれを還元しないことと言えよう。
宗教やスピリットを言葉を平易な言葉に換言するならば、信ずること、祈ること、畏れることなど、そういったことになるが、言うまでもなく、それらの経験がわたしたちの中にある。
信ずることをはじめとした経験の確かな実感を、あるがままに受容しないで、どうして人が人として生き続けることができるというのか。
合理主義を批判したいわけではなく、非合理主義を説きたいのでもない。
合理を合理のままに、非合理を非合理のままに。
しかし、さらに興味深いことは、バスカーの生涯と理論進化の道程をみていると、科学と宗教は、それぞれがそれぞれに開花するのみならず、それらがまるで手を取り合うように、相互に影響し合って開花結実せるものになっていく様を垣間見ることだ。
考えることを突き詰めるゆえに、誰よりも考えることの限界を感じ、その先にある信ずるという営みに明瞭なる照明を与え、
語り得ぬことを語り得ることへと挑むがゆえに、誰よりも語り得ぬものと語り得るものを輪郭鮮やかに感ずることができる。
ここに1つの壮絶なる弁証法的発達を視ることができる。
では、そのようにあるべきものをあるべきものに置くことができたとき、何が起こるのか?
2人の傑出する宗教家、哲学者は、宗教の本義を次のように述べる。
ティクナットハン
「霊性(≒宗教の本質)は美と愛と幸福をもたらします」
ロイ・バスカー
「メタリアリティ(≒宗教の本質)は自由、愛、創造性の哲学であり、(中略)メタリアリズム(≒宗教の本質)は、解放の哲学であり、わたしたちが今以上の存在になることを求めています」
宗教の本質を、これほどまでに端的かつ的確に言い表せる言葉はないように思う。
それらを正しく開花するために、我々はまずは、あるべきものをあるべき場所に位置付けることからはじめてみなければならないのではないだろうか。