コロナが身近になってきて、これによる差別や偏見を今日は感じた。
先週、映画「あん」をみたけど、それと同じようなことが形を変えて現れている。
あんでは、樹木希林が演じる老女の徳江は、元ハンセン病だった。
当時、ハンセン病(らい病)はコレラやペストなどと同じように恐ろしい伝染病であると考えられてた。
まさにコロナと似たような形で、保健所の職員がハンセン病患者さんの自宅を徹底的に消毒する。
そのため、ハンセン病と診断されると、偏見や差別の対象とされ、療養所送り込まれる施策が行われていた。
昭和6年(1931年)には、すべての患者を隔離する「癩予防法(らいよぼうほう)」が成立し、各地に療養所が建設された。
ハンセン病患者は療養所に収容されると、一生そこから出ることができなかった。
それがどれほど辛かったのか、その一部にしか過ぎないが、「あん」から感じることができる。
話は今に戻し、コロナが蔓延して、近くの人がなっているのをみて、それによる差別や偏見も感じる。
なっていない人の心境として、自分が自粛生活をしているストレスがあるがゆえに、なおのこと偏見を生み出しやすくなっているように思える。
客観的にみて、同じように生活をしているにも関わらず、なった瞬間、その人への見方がかわる。
なってしまった本人自身も、申し訳ない気持ちを過剰に抱えているようにも思う。
そんな中、今日は読書会に向けて、発達理論の1つであるビル・トーバートの「行動探求」を読んでいた。
これを読んでいて、偏見とどう向き合うかについてのヒントも、ここにあるように思った。
行動探求とは、「行動する」と「探求する(内省する)」が別の取り組みとして認知されているが、それが発達していくと実は同時にできてくるという話だ。
深い内省と、しかも、タイムリーにできるようになってくる。
自分の今この瞬間の言動が、自分のどういった構造から生まれているのか、どういった思い込みや価値観から生まれているのか、ということを瞬時に気づけながら動けていくというわけだ。
コロナになってから、政府もコロナによる差別や人権保護の発信している。
それはそれでとても重要なこと。
だが、現実問題、誰がも「そんなコロナによって差別したらダメだよね」と同意するわけだが、いざ目の前に、感染された方と出くわすと、無自覚のうちに差別的な言動を行ってしまっている。
自己を防衛するためにも。
この「無自覚のうちに」というのがポイントで、私達はそれに気付かなければならない。
それが行動探求の1つの意義であるし、発達理論の1つの意義に思う。
私自身も、自分の意図せぬかたちで現れる傷つける言動に、自分自身で瞬時に気付けるようになっていたい。
そして、それをを生む構造そのものを変容させたいし、自身の思い込みも変容させたい。
2021年5月22日の日記より
2021年5月25日