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日記「あじわい」

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変性意識状態の体験談を少しだけ#251

21時22分、熱帯夜で少し身体が火照っている。

私のこのリフレクションジャーナル(日記)は、なるべくすべてをさらけ出そうと公開しているのだが、公開していないジャーナルも多くある。

そんな中で、今日は1つ、誤解を恐れず、言える範囲で開示していきたい。

私は、ILP(インテグラルライフプラクティス)として、私のできうる範囲で、日常のすべてを生きる上で必要な実践の場として捉えて生きている。

その中でも、私は、ときおり、意図せぬ形で変性意識状態というものに入る。

別の言葉で言えば、フロー、ゾーン、至高体験(ピークエクスペリエンス)、エクスタシスと言われるものになる。

もう少し別の切り口で形容するならば、古代からの偉大な叡智であるシャーマンのトランス状態、キリスト教の神秘体験、ユダヤ教のカバラ、インドのヴェーダンタ哲学や仏教の密教などで体験されるような、瞑想的な意識状態や非二元の意識状態。

まず、ここに関心のないものは、この記事を読むことをやめたほういい。

話を続けよう。

かなり広く風呂敷をひろげたが、もちろん厳密には細かく意識状態はわけていくことができる。

ここから私の経験で語っていきたい。

その中でも、ごくまれに、この上ないほど、生きる喜びを感じるときがある。

それは、生きとし生けるもの、過去や未来も含めて、すべてに感謝の念であふれ、自然と涙がとまらなくなる。

普段、どんな体験、感情でも、適切な言葉を与えることで自分の中に記憶させていこうとする欲求があるのだが、このときばかりは、これほどまでに言葉にするのが野暮なことはないと思え、言葉にしたくなくなる。

言葉というものがなんと虚しいものかと思う。

とくに、普段の状態とは異なり、さまざまな境界が消えていく。

その中でも、最も不思議なのは、最も深い状態にはいったとき、自分という人間を成立させていた感覚的境界線が溶解する。

だが、一方で、その状態になったとき、その前後で私は生きることがものすごく苦しくなる。

これほどの苦しみがあるのであれば、死ぬことのほうがマシだと思うほど。苦しみを抱えていきることが、これほどまでにキツイのかと。

こう書くと心配されるかもしれないので、きちんと書いておくと、別に自分の命を粗末にするつもりはないし、この意識状態自体、ある程度は自在にコントロールしている。

もちろん、深い意識状態は、私の自在の範疇外の部分はあるのだが、そこへ至るまでは、いくつかのステップがあるので、かなり前の段階でコントロールして、こういった状態にならないようにしている。

私にとって、こういった状態になると、世界のあらゆる痛みが自分の中にはいってくる。

自転車をこいで、ふと道路におかれている献花をみる。

ふとポイ捨てされたパンの袋が落ちている。

ふとスマホをみて流れていくるニュース。

それら1つ1つがあまりに辛く、目をそむけたいのに、私の身体にある目や耳などから入る情報から、勝手に色んな痛みが入ってくる。

そして、極めつけは、私は自らが抱える実存的な問題と対峙することになる。それは私自身が仕事をし生活する上で支障をきたすレベル感のものであるので、普段は意図的に蓋をしている。

私自身は、自身のこういった摩訶不思議な体験によって、インテグラル理論をはじめとして、これらの関連するような心理学、哲学、思想、宗教、古代叡智への関心に拍車をかけるようになっている。

もちろんさらに広くいうならば、それらが内面外面・個人集団という観点で相互作用する形で、関連する歴史、社会学、地政学、経済学、国際政治などにも関心が向かっている。

そして最近感じたことだが、なにより、私にとっては伝記という物語が一番すっと入ってくる。マンデラ、ガンディーといった方々の言葉にもっともっと触れていきたいと思っている。

同じ人間として、彼らのような人がいたことに、ものすごく勇気をもらう。

ここまでわりと抽象度を高くして、かなり情報を省略した形になり、もはや体験談ではないかもしれない。笑

体験談を聞きたい方は、個別で連絡をいただきたい。

それでも、こういったことを公開することは憚れてきたが、今日このレベル感でも公開しようと試みたのは、それこそ私というより、社会が私という身体を通して語りたがっているからである。

2021年8月22日の日記より

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