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日記「あじわい」

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ケン・ウィルバーのインテグラル理論にて発達ライン(発達領域)と表現されるように、私たちは実に多様な能力、知能がある。

どれだけ賢くとも、倫理観がなければ、その知性も悪用されてしまうことは、それを示す典型例だろう。

バランスを取り戻すリバランスが重要なのであるが、その中でも1つ、精神性のラインが非常に重要になる。

高次の発達において、微細なものを感じ取っていくことになるし、リバランスという文脈においては、近代以降、我々は魂、精神性をないがしろにしてきてしまった。

その観点から、ジェームズ・ファウラーが理論立てた「信仰発達理論」は重要な理論になるが、ここでまず1つ大きな問いがある。

ファウラーの言っている「信仰(faith)」とは何なのか。

この理解がものすごく重要になる。

これを理解せずには、他の発達ラインと同じようなものに感じてしまう。

そのために、昨日のジャーナルに書いたようなファウラーの生涯や理論の系譜、立脚点を概観して徐々に掴んできている。

しかし、より深く理解しようとすると、ファウラーの系譜にあるニーバーの信仰論を理解する必要があり、ニーバーの信仰論を理解しようとすると、マルティン・ブーバーやジョサイヤ・ロイスを理解せねばならず、芋づる式に出てくる。

まさに巨人の肩にのって生まれてきていることを実感するが、すべての巨人を見ることはできず、私なりに理解しうる範囲でジャーナリングしていきたいが、今日は今のこの瞬間思う、信仰の今日的な意味を綴っていきたい。

今日的な意味

まずもって、現代に生きる我々にとって、「信仰」を理解することの今日的な意味はどのようなものなのか。

今この瞬間、これを改めて書いておきたい。

というのも、日本においては、特定の宗教信仰を表明せず、宗教に無関心だったり嫌いだったりして、信仰という言葉自体が馴染み深いものではなく、そこに必要性も感じている人の方が少ない。

しかし、ファウラーが「Stages of Faith(信仰発達理論)」で「信仰」は、「宗教に属しているか否かにかかわらず、すべての人のもつ特質である」と述べている。

超越者を信じることでもなく、根源的な価値や力を希求することと言っている。

もう少し、私たちに引き寄せると、信仰は、「私たちの生きる意味を求めること」と言えるだろう。

生きがい、価値ある人生を送る、こういったことにまつわるものになる。

特に、我々は「死」というものを体感として実感でき始めたとき、これまで培ってきたものがすべてが無に帰することを痛感する。

無に帰するにもかかわらず、私たちはなぜ生きるのだろうかと。

また、「老い」や「病」というものも、生と死を表すだろう。

若いうちは、できなかったことができるようになっていき、それに喜びを感じる。

だが、老いるにつれて、これまでできていたことができなくなる。

時にトイレにさえも一人でいけぬ、失禁もある、情けなくて仕方ないと思うようなことをなる。

すべてが無に帰するのになぜ生きるのだろうか、人に迷惑をかけるような情けない状態になってもなぜ生きるのだろうか。

我々は、こういった病や老い等を通じて、誰しもが「生」や「死」についての意味付けを再定義しなければならない状態に立たされる。

そんなときに、「生」や「死」、あるいはそういったことを包括して根源的なものをどのように捉えるのか、それがどれほど豊かなものであるのか。

その豊かさがどれほどなのかを示すのが、信仰の発達段階にて整理したといってもいいのかもしれない。

こういった「死生観」が、信仰ではないかと思う。

2021年8月29日の日記より

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