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日記「あじわい」

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ファウラーの「Stages of Faith(信仰発達理論)」の「Faith(信仰)」とは何か。

彼の理論は、神学的な要素と心理学的な要素から成り立つゆえに、その双方の一定の知識が必要となる。

正直なところ、書籍を通じても、私がもつ神学的な知識がやや足りないところから、理解が難しいことが多い。

それでも、このタイミングで理解しうる解釈しうる範囲で残しておきたい。

信仰とはなにか

一言でいえば、根源的なものへの意味付けと言えるのではないかと思う。

意味づけというと、成人発達理論を代表するようなロバート・キーガンが展開する「meaning-making」もあるわけだが、より根源的なものへの意味付けを言っている。

それは、人生とは何なのか、この世界は何なのか、生と死とは何なのか。こういった類のものへの意味づけになる。

これを理解するにあたり、重要な概念がいくつかある。

triadic structure

まずは、「triadic structure」

通常、信仰というイメージは、「私は神や仏を信じます」というように、絶対的他者(the Absolute Other)や超越者(the Transcendent)を直接信じることと捉えられるが、ファウラーはそうしていない。

そういった2つの関係で成り立つものではなく、3つの関係で成り立っているという。

その3つとは、
・自己(self)(s)
・他者(others)(o)
・共有された価値と力の中心(shared center(s) of value and power)(scvp)

私たちが信仰しているのは、自分、他者、のみならず、共有された価値や力といった私たちを結びつけるものがあって、我々が信頼や忠誠をあらわすとしている。

「共有された価値と力の中心」と呼んでいるのは、他者や共同体と共有した価値観であったり、信念であったり、約束であったり、目的のようなものになる。

たとえば、貨幣というのも、我々がそこに価値を信仰しているといえる。

結婚にしても、パートナーと忠誠をあらわすのみならず、誓いそのものにも忠誠をあらわす。

企業においても、ビジョンや理念そのものにも信仰する。

こういったことから、ファウラーが扱う信仰には、宗教上の信仰を含みながら、我々が日常誰もが信じているものも含めて信仰と捉えている。

信仰の発達

具体的な例としては、ファウラーは幼児と養育者を例にしている。

幼児と養育者の間のみならず、彼らを結びつけるもの介在する。

たとえば、ミルクを与えることで、「食べることは生きるために必要だ」という価値観を信じる。

これらは、養育者との関係のみならず、家族、友人、学校、仕事と広い関係をつくっていくことで、「共有される価値と力の中心」は変わるし増えていく。

そして、多くの「共有される価値と力の中心」と出会う中で、徐々に抽象的なものも理解し、自身の使命や価値判断によって吟味するように発達していくのである。

ultimate environments(究極の環境)

この「triadic structure」に関連して、もう1つ大事な概念として、ultimate environments(究極の環境)がある。

これは、様々な「triadic structure」がある中で、それらを包括するようなものをultimate environments(究極の環境)と呼んでいる。

様々な関係において「共有される価値と力の中心」がある中で、それらを包括して「自分の生きる世界はどのようなものか」、「自分とは何か」を意味づけるようになる。

これをultimate environments(究極の環境)と呼んだ。究極というのは、時間・空間としても最も遠く、全体的で、包括的で、統合的なものであるとしている。

ファウラーはこれを信仰と呼んでいる。

私たちが経験してきた家族、学校、仕事などの共同体の中で、共有してきたすべてを、全体的、統合的、包括的、根源的に捉えて意味づけるものを信仰と呼んでいる。

2021年8月30日の日記より

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