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日記「あじわい」

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「魂のライフサイクル」を読んで。輪廻思想の意義とリスク#385

輪廻思想は、インド哲学を中心に数多くある。

そのうち、西平先生は、ユング、ウィルバー、シュタイナーの理論比較を行った。

なぜこの3人なのかといえば、理論としての完成度が高く、理論的な整合性、体系的な広がりをもち、歴史的な吟味に耐え得る力を持っている、学問的に検討に値する思想だからだ。

私自身は、ユング、ウィルバー、シュタイナーは好きであるし、それぞれ個別の理論は知っていることから、この3つをどのように比較していくのかというその思考そのものに関心が高かった。

また、シュタイナーは直接的に輪廻思想について述べているが、ユングやウィルバーの思想にそういった観点はピンとこなかった。

その点からも興味がわき、本書「魂のライフサイクル」を読み始めた。

本書について

本書は、各個別の理論について、なんといっても西平先生のわかりやすさに驚いた。

理論の基礎は、言えば当たり前だが、それぞれの書籍を当たるほうがより広く深く理解できる。

しかし、そういった個別の理論を知らない方向けにも、ごくごく平易に、簡潔にまとめている点に、西平先生の明瞭さの力の高さを目の当たりにした。

そして、輪廻思想という観点で、この3巨人の理論を比較する洞察力は何より驚いた。

画像1

(内容は本書を手に取りください)

内容さることながら、その研究プロセスそのものが、自身の理論探求のための学びになったように思う。

なお、本書は1997年初版のため、ウィルバーに関しては第一期の「意識のスペクトル」と、第二期の「アートマンプロジェクト」、「エデンから」を主な理論としている。どちらかといえば、トランスパーソナルの観点からであった。

二重生活

西平先生の書籍は、他の書籍でも感じたが、人を見て法を説くということを徹底されているように思う。

というより、本書のような内容を扱うには、下手したらアカデミックな世界や社会から突き放されてしまう可能性がある。

その恐れがあるためだろう。丁寧に市井の価値観に寄せて書いている。

輪廻思想を扱うにあたり、序文にて、このような言葉を綴ってくれている。

最近になって、「臨死体験」だの「前世記憶」といった「あやしい」題名の本を読みあさった。「前世治療」という本も、手にとってみた。半信半疑で読み進めながら、その「世界観」の違いに、何度も、息をのんだ。

こちらの世界からみれば、あるで馬鹿げたお話以外のなにものでもない。しかし、あちらの世界に入ってしまえば、ひとつの筋が通る。天動説と地動説との対立にも似て、まるでパラダイムが異なっていた。

それは一種の異文化理解である。こちらの文法をもってしては、あちらの意味世界が読み解けない。しかし、あちらの世界に馴染んでみれば、あちらなりの文法が見えてくる。

そして、その文法がわかったとたん、反転図形が入れ替える。今度は逆に、こちらの世界が、まるで薄っぺらに見えてくる。そして、当然自明の前提がなくなって、宙づりになる。

しばらく、私は。その宙吊りを楽しんだ。2つのパラダイムの間を何度も往復し、反転図形が入れ替わる一瞬を、意図的に何度も体験した。

私がなぜ、この文章を今残しておきたかったかといえば、世界を豊かに捉えていくというのは、まさにこの姿勢が大事だと共感したからだ。

輪廻思想に限らず、ときにタブーとされ、毛嫌いされるようなものも、時代が作り込んでいる価値観に過ぎない。

異文化理解とは言い得て妙。私も今まさにこの広い世界に対して、異文化理解をし、宙吊り、2つのパラダイムを生きる二重生活に飛び込みたいと思っている。

輪廻思想との向き合い方

さて、本題の輪廻思想だが、ここで問いたいことは、輪廻・転生はあるのか?ということではない。

西平先生が、シュタイナー教育入門という書籍の中で、このように述べている。

さて、以上のような話(輪廻・転生)を、大学の授業で紹介すると、決まって出てくる質問がある。本当を言えば、「ふれずにすませたい」質問。
「こうした話を、あなたは本当に事実と思って話しているのか。それとも、作り話と割り切っているのか」

「事実」か「作り話」か、そうした二者択一そのものに無理がある。そう言って、はねつけるだけの芝居度胸があれば見事なのだが、まだ修業が足りない。しぶしぶ、本音を明らかにすることになる。

正直にいえば、私はシュタイナーの説明を「事実」として受け取る用意がまだない。もしくは、この話が事実であるかどうか、それは問わないことにしたいと思っているのである。

ただ、人類の精神史の中で、輪廻や復活といった生まれ変わりのイメージが、繰り返し生じていたことだけは、疑いようがない。あるいは人々は、確かに、そうした人生イメージを持っていた。

私の関心は、そうしたイメージが心理的・実存的にどんな意味を持つのか、それによって人生がどう違って見えるのかということである。

輪廻転生が事実なのか、前世・死後の世界は存在するのか。それが問題なのではない。

その視点にたったとき、何が意味づけられるか。ということなのだ。

人生をいかに生きるかというテーマには、本来生や死と密接に関わり、それは前世や来世の信仰とも密接に関わっているといえる。

私自身は、この発想をとれたのは、映画クラウドアトラスがきっかけだった。

このように捉えることによって、救済されうる命があることを初めて感じた。

映画「クラウドアトラス」を通じて、我々は魂・命をどう捉えるか #33

 

輪廻思想の意義

では、改めて本書を通じて、輪廻思想のパラダイムから見たとき、どのような意義があるのだろうか。

この点について考えながら読んでいたところ、西平先生が、「生まれ変わりのパラダイムから見た人生」という小見出しで、書いてくれていた。

(1)死の恐れから解放される

例えばひとつ。このパラダイムの中では、死を恐れる必要がなくなっている。

クラウドアトラスで感じた、ソンミのふるまいはまさにそうである。

ウィルバーと、ウィルバーの奥さんトレヤさんもまさにそうだろう。

ガン生活に終止符をうち、トレヤさんが死に際、病院でチューブでつながれて死ぬのではなく、自ら死を受け入れてゆく。

「I’m so happy,I’m so happy,・・・」

マントラのように繰り返す。

そして、最後のとき、ウィルバーが語りかける。

「もし、時が来たのだったら、いくといい。何も怖がらないでいい。必ず見つけ出す。必ず僕が見つけ出すから、行きたかったら行くといい。」

「本当に私を見つけてね。約束よ。」

と、何度も何度もウィルバーは約束し、トレヤも何度も確かめ安心し、そして静かに息を引き取ったという。

このやりとりは涙が出てくる。

死は1つの扉に過ぎないことを信じられるからこそ安心できるのだろう。

(2)長いタイムスパンで、人生の意味を問う地平に立てる

2つは目は、長い100年の命を超えたタイムスパンで、人生の意味を問う地平に私たちを連れ出してくれること。

西平先生はこのように述べてくれている。

なぜ、この〈わたし〉として生きてゆかねばならないのか。そのことに、どんな意味があるのか。そうした意味の地平。正確には、そうした問いとして語り得る道具立てをもった地平ということである。

そして、その地平においては、人の人生が、すべて目的論的に意味づけられる。

すべての「魂」は、それまでの転生の歴史(魂のライフヒストリー)の中で、支払われるべき「業」を背負っている。それは他人に対する「借り」でもあれば、自分に対して償うべき「借り」でもある。そうした「借り」を返済し、成長のために必要な課題を果たすために、この地上にやってくる。

つまり、人生には目的がある。各自が、それぞれ今世で果たすべき課題を持っている。肉体を持っている間に果たすべき使命を背負っている。地上の人生は、「魂」の成長のための「修行の場」なのである。

そこで、このパラダイムを実感した人たちは、「なにのために生きているのかよくわかる」という。「なぜ私はこんなに苦しまなければならないのか、今はよくわかる」とも言う。

最終的には、「魂」の成長という目的のために、すべての出来事が役立ってゆく。どんな苦しみも意味を持つ。人生に無駄はないことになる。

人生に無駄はないとは、本当に苦しみのどん底にいる際は思えないものである。

しかしそんな時に、輪廻思想は無駄はないということをまた一段深く、腹落ちさせてくれ、救済してくれるのだろう。

この2点が、輪廻思想の意義に思っている。

私自身においては、どうだろうか。

私自身がこの思想に心底救われるのはまだ先なのかもしれない。そして、その時には、また一段も二段も、深く深く体感として入ってくるのだろう。

輪廻思想をとるがゆえのリスク

さて、一方で、どのようなものにも、光と闇があるように、輪廻思想のもつ闇、リスクはどのようなものがあるのだろうか。

いくつもの人生のつながりを見た際、ひとつの人生だけでは説明がつかないことも説明がつく。今世だけでは納得し難い不公平も、一連の人生のつながりの中では損得勘定が合うようになっている。

この見方は、ややもすれば、あまりにタイムスパンが長すぎて、今世をないがしろにしてしまうリスクが伴う。

また、前世からの因果による宿命論に陥る可能性もある。

一回きりのこの人生を充実させる観点を取りこぼしてはならない。

2022年1月17日の日記より

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