輪廻思想は、インド哲学を中心に数多くある。
そのうち、西平先生は、ユング、ウィルバー、シュタイナーの理論比較を行った。
なぜこの3人なのかといえば、理論としての完成度が高く、理論的な整合性、体系的な広がりをもち、歴史的な吟味に耐え得る力を持っている、学問的に検討に値する思想だからだ。
私自身は、ユング、ウィルバー、シュタイナーは好きであるし、それぞれ個別の理論は知っていることから、この3つをどのように比較していくのかというその思考そのものに関心が高かった。
また、シュタイナーは直接的に輪廻思想について述べているが、ユングやウィルバーの思想にそういった観点はピンとこなかった。
その点からも興味がわき、本書「魂のライフサイクル」を読み始めた。
CONTENTS
本書について
本書は、各個別の理論について、なんといっても西平先生のわかりやすさに驚いた。
理論の基礎は、言えば当たり前だが、それぞれの書籍を当たるほうがより広く深く理解できる。
しかし、そういった個別の理論を知らない方向けにも、ごくごく平易に、簡潔にまとめている点に、西平先生の明瞭さの力の高さを目の当たりにした。
そして、輪廻思想という観点で、この3巨人の理論を比較する洞察力は何より驚いた。
(内容は本書を手に取りください)
内容さることながら、その研究プロセスそのものが、自身の理論探求のための学びになったように思う。
なお、本書は1997年初版のため、ウィルバーに関しては第一期の「意識のスペクトル」と、第二期の「アートマンプロジェクト」、「エデンから」を主な理論としている。どちらかといえば、トランスパーソナルの観点からであった。
二重生活
西平先生の書籍は、他の書籍でも感じたが、人を見て法を説くということを徹底されているように思う。
というより、本書のような内容を扱うには、下手したらアカデミックな世界や社会から突き放されてしまう可能性がある。
その恐れがあるためだろう。丁寧に市井の価値観に寄せて書いている。
輪廻思想を扱うにあたり、序文にて、このような言葉を綴ってくれている。
私がなぜ、この文章を今残しておきたかったかといえば、世界を豊かに捉えていくというのは、まさにこの姿勢が大事だと共感したからだ。
輪廻思想に限らず、ときにタブーとされ、毛嫌いされるようなものも、時代が作り込んでいる価値観に過ぎない。
異文化理解とは言い得て妙。私も今まさにこの広い世界に対して、異文化理解をし、宙吊り、2つのパラダイムを生きる二重生活に飛び込みたいと思っている。
輪廻思想との向き合い方
さて、本題の輪廻思想だが、ここで問いたいことは、輪廻・転生はあるのか?ということではない。
西平先生が、シュタイナー教育入門という書籍の中で、このように述べている。
輪廻転生が事実なのか、前世・死後の世界は存在するのか。それが問題なのではない。
その視点にたったとき、何が意味づけられるか。ということなのだ。
人生をいかに生きるかというテーマには、本来生や死と密接に関わり、それは前世や来世の信仰とも密接に関わっているといえる。
私自身は、この発想をとれたのは、映画クラウドアトラスがきっかけだった。
このように捉えることによって、救済されうる命があることを初めて感じた。
輪廻思想の意義
では、改めて本書を通じて、輪廻思想のパラダイムから見たとき、どのような意義があるのだろうか。
この点について考えながら読んでいたところ、西平先生が、「生まれ変わりのパラダイムから見た人生」という小見出しで、書いてくれていた。
(1)死の恐れから解放される
クラウドアトラスで感じた、ソンミのふるまいはまさにそうである。
ウィルバーと、ウィルバーの奥さんトレヤさんもまさにそうだろう。
ガン生活に終止符をうち、トレヤさんが死に際、病院でチューブでつながれて死ぬのではなく、自ら死を受け入れてゆく。
「I’m so happy,I’m so happy,・・・」
マントラのように繰り返す。
そして、最後のとき、ウィルバーが語りかける。
「もし、時が来たのだったら、いくといい。何も怖がらないでいい。必ず見つけ出す。必ず僕が見つけ出すから、行きたかったら行くといい。」
「本当に私を見つけてね。約束よ。」
と、何度も何度もウィルバーは約束し、トレヤも何度も確かめ安心し、そして静かに息を引き取ったという。
このやりとりは涙が出てくる。
死は1つの扉に過ぎないことを信じられるからこそ安心できるのだろう。
(2)長いタイムスパンで、人生の意味を問う地平に立てる
2つは目は、長い100年の命を超えたタイムスパンで、人生の意味を問う地平に私たちを連れ出してくれること。
西平先生はこのように述べてくれている。
人生に無駄はないとは、本当に苦しみのどん底にいる際は思えないものである。
しかしそんな時に、輪廻思想は無駄はないということをまた一段深く、腹落ちさせてくれ、救済してくれるのだろう。
この2点が、輪廻思想の意義に思っている。
私自身においては、どうだろうか。
私自身がこの思想に心底救われるのはまだ先なのかもしれない。そして、その時には、また一段も二段も、深く深く体感として入ってくるのだろう。
輪廻思想をとるがゆえのリスク
さて、一方で、どのようなものにも、光と闇があるように、輪廻思想のもつ闇、リスクはどのようなものがあるのだろうか。
いくつもの人生のつながりを見た際、ひとつの人生だけでは説明がつかないことも説明がつく。今世だけでは納得し難い不公平も、一連の人生のつながりの中では損得勘定が合うようになっている。
この見方は、ややもすれば、あまりにタイムスパンが長すぎて、今世をないがしろにしてしまうリスクが伴う。
また、前世からの因果による宿命論に陥る可能性もある。
一回きりのこの人生を充実させる観点を取りこぼしてはならない。
2022年1月17日の日記より