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日記「あじわい」

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鈴木大拙の「日本的霊性」を読んだ。

本書を通じて、鈴木大拙の伝えたかった思いは何か、とその思いに馳せると、ウィルバーと同じように、霊性(スピリチュアリティ)を取り戻すことを言っているのだと感じた。

私たちが大和魂といったりするその根源にあるものが何であるか、霊性をに覚醒せよと言っている。

では、日本的霊性は何かというと、無分別智。

ここは同じ時代を生きた哲学者であり、大拙と交流の深かった西田幾多郎の「善の研究」と同じ話に思う。

それもそもはずで、両者ともに、禅や仏教概念を学びながら、西洋哲学を学び、それらどう統合するか主題としていたからだ。

そして、大拙は、この無分別智を、禅や浄土真宗によって言語化され民主化されたというが、厳密にはこれが禅や浄土真宗がゆえに生まれたわけではない。

たしかに、浄土真宗や禅が生まれた鎌倉仏教は日本において重要なことであったが、そもそも霊性というのは、すべての人間に宿っているもの。

それが日本的霊性としては鎌倉仏教という歴史を活用しているだけで、日本を離れれば、アメリカ的霊性、中国的霊性、インド的霊性、アフリカ的霊性様々あり、どの宗教もその土地や民族に合わせたものになっておるだけで、根本の無分別智という非二元の世界は共通した真理としてある。

もともと我々にあるものを、どのように表現するかの違いに過ぎない。

このことは大拙も理解して述べている。

自分の主張は、まず日本的霊性のあるものを主体に置いて、その上に仏教を考えたいのである。

仏教が外から来て、日本に植え付けられて、何百年も千年以上も経って、日本的風土化して、もはや外国渡来のものでなくなったと言うのではない。

初めに日本民族の中に日本的霊性が存在していて、その霊性がたまたま仏教的なものに逢着して、自分のうちから、その本来具有底を顕現したということに考えたいのである。ここに日本的霊性の主体性を認識しておく必要が大いにあると思う。

無分別智

改めて、無分別智とはなにか。分別は、概念や言語を使って物事を理解すること。

物事は言語や概念というある種分断された、記号化された情報に限定されてしまう。

目の前にあるリンゴをリンゴと名称することにより、他のリンゴとの同じリンゴになってしまう。

こういった分別ではない、世界の全体を捉え、正確に理解しようとする、無分別智。

西田幾多郎の言葉でいえば、主客合一の実存そのものに触れていく、純粋体験をせよという言葉にあたる。

我々が思考を使う前のその瞬間、直感としてつかんでいるものがあたる。

ゆえに、無分別とは、言葉を換えると、直感で世界をありのままに捉えること。

霊性、スピリチュアリティという言葉に、現代社会においては、嫌悪感を抱かれている言葉であるが、その認知はオウム真理教や江原啓之によるネガティブな印象により汚染されており、本来鈴木大拙、西田幾多郎を始め、禅の世界でも大事にされてきた霊性が見失いつつある。

現代社会の人をみて法を説くなら、霊性やスピリチュアリティという言葉を使わず説明するなら、「直感」という言葉がよいだろう。

大地性とは

さて、私が好きな西田幾多郎に少し寄せてしまったこともあり、改めて鈴木大拙の「日本的霊性」に戻したい。

ここには、重要な概念がいくつかある。

そのうちの1つは、大地性である。

生命はみな天をさして居る。が、根はどうしても大地に下ろさねばならぬ。大地にかかわりのない生命は、本当の意味で生きて居ない。

霊性の奥の院は、実に大地の坐に在る

大地は、自分の存在の底であるとする。

ここで大地が出てくるというのが嬉しい。我々は大地と1つに生きている。

莫妄想とは

莫妄想は、妄想(≒執着)することなかれ。

無分別につながる概念である。

何ものをももたないで、その身そのままで相手のふところの中に飛び込むというのが、日本精神の明(あか)きところであるが、霊性の領域においてもまたこれが話され得るのである。

霊性は、実にこの明きものを最も根源的にはたらかしたところに現われ出るのである。明き心、清き心というものが、意識の表面に動かないでその最も深き処に沈潜していって、そこで無意識に無分別に虚妄想に動くとき、日本的霊性が認識せられるのである。

日本的霊性の特質は、その莫妄想のところに現われるのであるから、日本的生活の面にもおのずからそれが読みとられる。これを普通には禅思想の浸透と言っているが、それよりも日本民族の立場から見て、日本的霊性が禅形態で云為(うんい)していると言ってよい。

実際のところは、常に脳が働いており難しい、思考をせずにというのは難しい。ここもある種のトレーニングが必要になる。

典型例が、マインドフルネス瞑想の実践になる。

以前のジャーナルで書いた科学と宗教の溝を埋める神経神学で書いたように、脳科学的にも、脳の働きが異なっている。実践の賜物である。

ウィルバーの整理

改めて、こうあたると、ケン・ウィルバーのメタ認知は恐ろしい。

つまり東洋思想や哲学を意識状態の話としながら、西洋で展開された心理学を意識段階としてわける。ウィルバーコムズの格子ができあがる。

その上で、一時的な変性意識が恒常的なものへと変わる第三層の世界にも東洋的な世界をもってくる。

また、意識のスペクトル図にて、東洋的な世界を最も根底に持ってくる整理は、改めてよくできた整理だなとしみじみ思う。

日本的霊性という、日本に根差した表現で、失われた霊性を語っていきたい。

2021年9月4日の日記より

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