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日記「あじわい」

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「ディキンソン詩集」と伝記映画「静かなる情熱」に触れて。彼女の詩の魅力#406

エミリ・ディキンソンという偉大な女性詩人の詩を、ゆっくりと音読しながら読み終わった。

彼女の詩は斬新かつ奇抜なものが多く、なかなか難解であることから、彼女の伝記映画も拝見した。

今日は、伝記映画と詩集から感じたことを残しておきたい。

エミリ・ディキンソンとは

まずは、彼女がどのような人か少し触れておきたい。

エミリー・エリザベス・ディキンソン(Emily Elizabeth Dickinson、1830年12月10日 – 1886年5月15日)は、アメリカの詩人。生前は無名であったが、1700篇以上残した作品は世界中で高い評価を受けており、19世紀世界文学史上の天才詩人という名声は今や不動のものとなっている。

wikipediaより

また、「ディキンソン詩集」(岩波文庫)の訳者、亀井俊介先生の前書きにもこう書かれてある。

エミリ・ディキンソンは、アメリカ北東部、ニュー・イングランドの田舎町に生まれ育ち、その外に出ることは滅多になかった。人生のなかばからは、家の外に出ることすらなくなってしまった。そして詩を書いていたのだが、生前に印刷されたのは10篇だけ。それもすべて匿名で、自分からすすんで発表した詩は1篇もなかったと思われる。だから、もちろん、詩人としてはまったく無名だった。世間の人はその存在も知らなかった。

ところが、いまや、彼女がアメリカの生んだ最高の女性詩人であることは、広く認められている。いや、「女性」などという限定をとっぱらっても、彼女がウォルト・ホイットマンと並んで、アメリカを代表する詩人であることに、異論をはさむ人はいないだろう。

生涯独身であり、南北戦争の時代、奴隷制度に反対、キリスト教福音派に抵抗する。腎臓疾患のため、56歳で死去する。

ディキンソンの詩の特徴

岩波文庫の亀井俊介先生の「ディキンソン詩集」は、ディキンソン全詩集に収められている1775篇から、易しくかつ重要なものを50篇選び抜き、かつ解説もある。

この解説が非常にありがたいもので、亀井先生は、彼女の詩の特徴を、まえがきに、「小さくて大きな詩的世界」として、以下のように述べている。

自己の存在を引き下げれば引き下げるほど、大きな飛躍ーー「永遠」にまでつながる存在の飛躍ーーを思うことの歓喜も生まれる。
(中略)
だからこそ、ディキンソンは時に自虐的とも思えるほどに、自己の困難さを強い、痛めつけた。
勝利よりも敗北に
評価されることよりも無視されることに
歓楽よりも苦悩に
共感を寄せた。それは彼女の生の美意識ともなっていたのではないか。

ディキンソンの詩のテーマは、自然、愛、死、永遠、神というような、ニュー・イングランドの詩人にとって伝統的なものが多い。しかしそのうたい方は、伝統的な態度に従ってはいなかった。自然についていえば、ロマン派詩人たちに多く見られるような、それと簡易に同化してしまう態度を彼女は示さなかった。自然に神性を認め、その神秘に魅力を感じても、自然に自己を支配させることはなく、”But nature is a stranger yet(けれども自然はやっぱり人よ)”といってのける。自己と宇宙と同化させるような、超絶主義者の態度も彼女はとらなかった。

彼女の魅力

彼女の魅力は何なのだろうかと思うと、

その1つに、「spiritual but not religious(無宗教であるが、宗教的な探究をする)」という言葉が想起した。

当時アメリカは、急速に産業国家へ発展していく最中、実利を追求する風潮の中で、詩は「Twiligth Interval」と呼ばれ、アメリカ詩は停滞する。

彼女自身も、キリスト教福音派の家系で生まれるが、形式的な信仰告白を拒否した。

が、信仰そのものを捨てたわけではなかった。

厳密には、無宗教ではないが、彼女なりに、精神を育み、神を求めていた。

その態度に、彼女の詩に感動する人がいるのかもしれない。

また、彼女の生活は、家の外に出るがほとんどなかった。夜中の3時に起きて、静まり返った夜に、詩を書く。

それは、有名になるためとか、売れるためとかではなく、詩を綴ることが、自分の心を癒し、自分の魂とつながり、彼女の生きがいそのものでもあった。

2020年、コロナになり、ステイホームやソーシャルディスタンスが続く中、彼女の家の中から、広い世界を感じる感性は、私たちが取り戻すべき感性なのかもしれない。

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彼女の手記

 

それ以外にも、彼女の魅力は語りきれぬほどあるだろう。

私個人にとっても、家に篭ること、愛に苦しみ姿を重ねるところもある。

多くの人にとって、その人ならではに浮かび上がる彼女の魅力があるのだろう。

【詩の紹介1】This is my letter to the World(これは世界にあてた私の手紙です)

いくつか、私にとって、お気に入りの彼女の詩を残しておきたい。最も心震えたのは、映画にも紹介されていた、彼女の代表作。

「This is my letter to the World(これは世界にあてた私の手紙です)」

This is my letter to the World これは世界にあてた私の手紙です
That never wrote to Me — 私に一度も手紙をくれたことのない世界への—
The simple News that Nature told — 自然が語った簡素な便り—
With tender Majesty やさしい威厳をもって
Her Message is committed そのメッセージをゆだねます
To Hands I cannot see — まみえることのできない人の手に—
For love of Her — Sweet — countrymen — 自然への愛のためにも— 気立てよい—同胞のみなさん—
Judge tenderly — of Me やさしく裁いて下さい— 私を

ディキンソン詩集より亀井俊介訳

彼女は、孤独の中にいたと思う。

生涯独身とか、それでも愛すべき兄弟と暮らしていたとか、そういうことではなく、主観の生き物であることから、誰ものが孤独であり、その孤独ゆえに唯一無二世がある。

そんな私が、世界にあてた手紙。

ここでいうNatureは、単に自然ではなく、ディキンソンの生きる世界。

世界が、私を通じて語った言葉です。

そのメッセージを、まみえることのできない、はるかな未来の読者にゆだねます。

世界の愛のために。

その希望を託した。

私自身も、脈々と受け継がれてきたものを受け取り、自分の中に息づくものを、なにか未来へと渡していきたいと思う。

【詩の紹介2】I like a look of Agony(私は苦悶の表情が好き)

次に、歓楽よりも苦悩に共感を寄せている詩。

I like a look of Agony(私は苦悶の表情が好き)

I like a look of Agony 私は苦悶の表情が好き
Because I know it’s true— 真実なのだと分かるからー
Men do not sham Convulsion 人は痙攣(けいれん)の真似などしない
Nor simulate, a Throeー 劇痛を、装ったりもしない

The Eyes glaze onceーand that is Deathー いったん眼がかすんできたらーそれはもう死ですー
Impossible to feign 見せかけることなどできはしない
The Beads upon the Forehead 素朴な苦悩をつらねた
By homely Anguish strung. 額の汗のじゅず玉を。

ディキンソン詩集より亀井俊介訳

本詩について、亀井先生は、次のように解説している。

ディキンソンは、Agony(苦痛、苦悶)にこそ人間の真実を見る。苦悶あってこその歓喜なのである。しかし彼女は、ロマン派詩人たちのように、大声で苦悶を叫ぶことはしない。いわば距離をおいて、真の苦悶と「見せかけ」との境界を見定める皮肉な態度を保つのである。

私自身が、今のジョアンナメイシーや若松英輔さんの思想に深く共感しているのは、この痛み、悲しみ、苦悶にこそ、力があることを深く感じつつあるからである。

それは、ただ痛み、悲しみ、苦悶なのではなく、それがあっての歓喜、美しさがあることを信念としたいからである。

【詩の紹介3】A word is dead(ことばは死んだ)

次に、彼女のことばという生命について。

A word is dead(ことばは死んだ)

A word is dead ことばは死んだ
When it is said, 口にされた時、
Some say. という人がいる
I say it just わたしはいう
Begins to live ことばは生き始める
That day. まさにその日に。

ディキンソン詩集より亀井俊介訳

これは、井筒俊彦が「意識と本質」において、「コトバ」と「言葉」をうまくわけて語ったことと同じようなものを感じる。

前者のことばは、「言葉」であり、「言葉」は削ぎ落とされて固定化されたものであるために、死んだもの。

しかし、ディキンソンがいうことばは、「コトバ」である。

「はじめにことばありき」と始まる新約聖書がそうであり、

大日如来の「ア」ということばから、全存在世界が現出し始めることと通じて、

「コトバ」によって、生き始める。

詩は「言葉」ではなく「コトバ」である。

そのことばの生命観について語ってくれているように思う。

【詩の紹介4】I’m Nobody! Who are you?(私は誰でもない人!あなたは誰?)

最後に、この詩を。

I’m Nobody! Who are you?(私は誰でもない人!あなたは誰?)

I’m Nobody! Who are you? 私は誰でもない人!あなたは誰?
Are you ー NobodyーToo? あなたもーまたー誰でもない人?
Then there’s a pair of us? それなら私たちお似合いね?
Don’t tell! they’d advertiseーyou know! だまってて!ばれちゃうわーいいこと!

How drearyーto beーSomebody! まっぴらねー誰であるーなんてこと!
How publicーlike a Frogー 人騒がせねー蛙のようにー
To tell one’s nameーthe livelong Juneー 聞きほれてくれる沼地に向かってー6月中ー
To an admiring Bog! 自分の名前を唱えるなんて!

ディキンソン詩集より亀井俊介訳

この詩について亀井先生は次のように解説を載せている。

作者は自分をNobody(誰でもない人、取るに足りない人)ときめつけることによって、かえって存在の自由、あるいは自由な生き方を確保しようとしている。第2連のSomebody(誰である人、ひとかどの人)は、逆に、名声を求めて、自由な生き方を見失っている。Mark Twainが生んだ自然児Huckleberry Finnが「おらは誰でもねえ」といって自分の自由を守ろうとするところなども思い出される。ディキンソンは、その種の思いを、ユーモアたっぷりに、余裕を持って表現している。

人を言葉で規定するのは、やめよう。

なんだったら、人という言葉さえいらないのかもしれない。

自己という概念が、いくつかの分断された世界観を生み出していること思うと、そう思う。

This is my letter to the World.

ディキンソンが、まみえることない未来の人に託した詩と出会い、なにかを感じて書いたこの日記が、ディキンソンにとって喜びになっているかもしれない。

2022年4月5日の日記より

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