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日記「あじわい」

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英語書籍を読むことを通じて#254

多くのセラピーに関連する思想、理論、技法に触れていくため、邦訳されていない書籍を数冊あたっていっている。

しかしながら、私の英語力の低さから、あまりにも時間がかかりすぎて時折嫌になる。

私にとって英語を獲得することが、どれほど世界を広げてくれているか、頭ではわかっているものの・・・(いや体感としてはわかっていない)。

そんなことから、先月から友人の力を借りようと、アメリカにいる親愛なるコーチに要約をお願いして、読書会をひっそりとしている。

何回か実施して、友人から言われたのは、要約のスタイルを辞めないか?とのことだった。

理由はごもっとも。

私が日本語書籍でも要約を読まないと同じように、要約レベルを読んでも仕方がない。

いやもちろん要約にはそれ固有の魅力があるのだが、今回の趣旨とは合致しない。

私自身心理学に関して一定の専門知識を有しており、要約になると真に感じ取りたいことが削ぎ落とされてしまうし、要約者の意図が反映してしまう。

英語書籍になると、一歩工数が増え、訳すという作業に、また訳者に息づいているものが良くも悪くも混ざってしまう。

原著には、ゴーストライティングでない限り、その人の肉声であって、その言葉を通じて、作者に息づいているものに触れることができる。

「読もうではないか」という気持ちを改めて強くさせていただいた。

と、同時に、こんな問いもたつ。

そもそも読むという行為は何なのだろうか?

ショーペンハウアーが「読書について」においても、ピエール・バイヤールが「読んでいない本について堂々と語る方法」においても、読書という行為に対して示唆深いことを述べてくれている。

この世にある知恵の大海の中で、もはや読んだ読んでないなどさほど大差はない。

読むという行為から著者との対話を通じて、著者や書に息づいているものを感じ、自らが考える機会とし、たった1冊からでも、自分の内なる図書館には数冊に並ぶような読書体験としていきたい。

2021年8月25日の日記より

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