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日記「あじわい」

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農家への道が開かれた時#419

土日は専ら、両親と共に、畑をしているのだが、ついに、農家への道が開かれた。

借りている地主さんが飲食店を行っており、よかったら玉ねぎを作ってくれてないか?と声をかけていただいた。

うちの両親は大盛り上がりである。

私も最初は嬉しかったが、だんだんと冷静になると気持ちが乗らなくなった。

農家の苦悩

それは、シンプルに、大変だと感じる。

今は、動いているのは基本的に土日だけ。
玉ねぎだけでいえば、1シーズンで600個ほど作っている。

しかし、実際、売るとなれば、おそらく5000個は必要になってくる。

1つ安くて50円で売っても、25万。100円で売っても、50万。

あれだけの労力をかけて、たったそれだけなのか、と。

畑を実践する動機、目的

自分の中に、明らかに、趣味で収まることの楽しさと、それがある一定の責任を背負う範疇になることによる楽しさの減少は、ラインがあるように感じる。

そもそも私はどうして畑をしているのだろうか。

今改めて目的を内省してみたい。

(1)センスオブワンダーを育むこと

1つは、センスオブワンダーを育むことだろう。

いのちそのものに触れることの、神聖さ、驚き、喜び、楽しさ、畏怖、そういったものがつまっている。

この感覚が鈍ってきているのは、私だけでなく、集合的なシャドーでもある。

特に、近代以降の世界というのは、宗教の衰退と科学の発展の流れで、精神性を周縁化してしまった。
かつ、産業革命以降の合理主義によっても。

これを取り戻したい気持ちもある。

(2)自然の痛みを感じること

それから、これは実はセンスオブワンダーに含めていいと思うのだが、今の人間社会が引き起こしている環境問題の痛みに触れることでもある。

普段、PCで仕事しているだけでは、異常気象による暑さ、台風、水不足、生態系の変化といったことが、意識にあがってこない。

しかし、自分がライフスタイルの中に畑が入ることで、畑を入り口に自然とつながり、今の自然に起きている痛みを感じることができている。

痛みは、原動力になることは言うまでもない。

(3)脱お金

それから、お金から脱したいという点もあるだろう。

なんとなく自分なりに資本主義の流れから、ライフスタイルごと徐々に脱したいという気持ちから実践している面もある。

こんなにも野菜が育つことを感じると、お米はさすがに自分で作れていないが、最悪なんとか生きていける感覚を持てる。

お金に毒されていること

そういった動機や目的をふまえると、私は今の現代社会が周縁化してきたことや、資本主義・貨幣経済では感じにくいような側面を畑に求めている。

そのため、畑に急にお金の話が入り込むと、私のニーズと合わなくなってくる。

だが、この件を少し冷静にみると、自分の意識のなかに、いかにお金が入り込んでいるかがわかる。

気づかぬうちに、ありとあらゆる価値判断に、お金は1つのファクターとして入ってきている感覚がある。

以前より、無意識的に突き動かされていることを自覚しつつあるものの、どこまでいっても、資本主義という構造からの影響をまだまだ受け続けている。

一方親をみていると、歩んできた歳が違うこともあるが、自分達の作った作物が誰かのためになるという喜びから、今回のことを引き受けている。

本来、私がお金から脱したい気持ちを体現できれば、このような発想で引き受けられたのかもしれない。とも思う。

価値があると感じたいという根元的欲求

また一方で、今日は、先週に続き、C+F研究所のエニアグラムの講座を受けていた。

私は、タイプ3なのであるが、ここには、「自分に価値がない」という根元的な恐れがあり、それゆえに「自分に価値があると感じたい」という根元的な欲求に突き動かされている。

改めて価値というのは何であるか。

他者が自分に関心が向くことで、価値を感じるという性質があるのだが、価値の1つには、わかりやすく数値化、見える化できるものという特性があるように思う。

そして、その代表例としてお金も絡んでくるだろう。

しかし、本来、すべてが数値化、見える化できないものではない。

むしろ、今私がセンスオブワンダーで育もうとしているのは、「大切なものは目に見えない」というように、目に見えない次元のものを大切にしようとしている。

最終的には、「価値からの解放」があるように感じるが、価値の捉え方を、このように目には見えぬものへ、価値を捉え直そうとしている最中なのだろう。

そのようなことを思った。

今回の農家への道は、両親には、どうか無理のないよう、楽しんでもらいたい。

2022年7月10日の日記より

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