先日加藤洋平さんからいただいた虚構性に関する問いに取り組みたいと本屋に寄って、メタ理論の1つであるロイ・バスカーの書籍を探した。
が、梅田のMARUZEN&ジュンク堂書店をもってしても、ロイ・バスカーの書籍は置いていなかった。なんとなくわかっていたのだが、残念だ。
そんな中、カントやウィトゲンシュタインが目に留まる。
昨年無職期間中、読んでいたが、あまりに難解過ぎて途中で諦めてしまった。
しかし、今回ロイ・バスカーの理論に触れるにあたっては、メタ理論というだけあって、関連性がどこまであるのかわからないが、カントの認識論も理解しておいたほうがいいのではないかと感じ、家に帰って「純粋理性批判」を読み始めた。
いくつか印象的な部分を残したい。
CONTENTS
空間と時間
興味深かった1つは、感性というものは、空間や時間で整理されて直感をつくっている点。
ここは、インテグラル理論の意識状態にある、目撃者(ウィットネス)の意識状態と非二元(ノンデュアル)の意識への理解が繋がるように思う。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の我を、カントはさらに理性、悟性、感性にわけている。
目撃者の意識状態は、純粋な主体そのものであることから、この理性、悟性、感性さえも客体されうるものになる。
感性が空間・時間を使って整理する点から、純粋な主体というものには、時間や空間がない状態というのも理解しやすい。
主観・客観の一致
そしてもう1つは、物自体(叡智界)と現象をわけて、物自体は人間にはわかりえないと線引をした点。
自然科学の観察や実験も、人間というレンズでみる限り、そこに主観は残ったままであり、物自体がどうなのかは人間ではわかりえない。
ゆえに、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」となる。
「客観性」というものを、人間同士が共有できるものとして捉え直した点にスッキリする。
自然科学だけでは語り得ない領域があるというのは、カントのいう物自体(叡智界)の領域であり、この前提をもっておくか否かで、自然科学との付き合い方が変わるように思う。
それにしても、カントはアンチノミーを出しながらも、イギリス経験論と大陸合理論を統合する点、自由意志と決定論を統合する点から、統合的な高度な知性を感じられる。
私自身理解できていないことが多いが、こういうことの積み重ねが、いろんな理解をすすめてくれる。
哲学の探求もこうやってときどき進めていきたい。
2021年1月30日の日記より
2021年2月1日