可能世界の入門書にあたる三浦俊彦先生の『可能世界の哲学「存在」と「自己」を考える』を読んだ。
今いる現実のみが世界という概念を揺さぶった量子力学が有名だが、そこでよく言われる「パラレルワールド」を人文科学、哲学で扱ったのが可能世界論になる。
SFはだいたいこういうものが扱われることもあって、個人的な関心からも面白かった。
このことで、思ったことを綴っておきたい。
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数学や論理学の偉大さ
まず率直に思ったことは、数学や論理学の偉大さ。
数学や論理学を、いまだに限定された一部の学問のように思ってしまっていたが、むしろすべての学問の基盤にあり、曖昧なものを明確にしてくれ、閉ざされた世界を広げてくれるものだということを今日も思った。
数学や論理学を活用した可能世界論は、哲学の中でもそれはもう緻密精妙な形而上学だった。
複雑系科学のときにも感じたが、数学や論理学は、包括的に捉えていくというより、個別具体的な問題に対して、一歩一歩前進させ、ぼやけた靄を晴らす明確さという武器を与えてくれるものだと思う。
可能世界を認めるのか
さて、本題の可能世界について。
可能世界をめぐっては、様々な立場がある。
わかりやすくいうと、まずパラレルワールドの存在を認めるのか、認めないのか。認める中にも複数の立場あり、認めない立場の中にも複数の立場がある。
具体的な世界として存在する世界は、現実世界だけであり、可能世界はみな、現実世界の中で構成された抽象的概念に過ぎないと多くの人が考える。(認めないと自覚していなくても、発言1つ1つは、常に何かしらの考えに立脚している。)
私もよくわかるが、可能世界にもっと関心を寄せていきたい。
歴史をみても、今まで常識だと思っていたことが違ったというコペルニクス的展開は数多くあるわけだ。
私が他者と比べて何ら特別な人間ではなく、自我にとって特別な人間であるに過ぎないのと同じように、私たちがいるこの現実世界も、私たちがいるからここを現実と呼んでいるだけであって、私たちの分身や他の可能的存在のいる他の世界ではそこが現実と呼ばれているのだろう。
地球が宇宙の中心でないように、私たちのいる現実世界も、論理上考えられる数ある世界の中心ではない。
すべては、ただあるだけ。
私たちが自分の存在を認めると同じように、諸可能世界を認めればいい。
終わりに
詳しいことはわかっていないが、可能世界論は、哲学以外にも、認知科学、意味論、コンピュータ科学など、広い領域で応用されているらしい。
数学嫌いだからと可能世界や分析哲学を敬遠していることは実にもったいない。
私自身は別にそこの研究をしていくわけではないが、最低限は知っておきたいと思う。
常識を疑うことは、豊穣な可能性を孕んでいる。
2021年4月6日の日記より
2021年4月7日