今上映されている中村哲さんのドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯りを照らす」。
ここで、初めて耳にした話があった。
それは、哲さんの家族のことについて。
詳細は映画に譲るとして、これがあまりにも衝撃的だった。
この話は、今までも公表されていたものだったのかどうか、私はそこがどうしても気になった。
過去に公開されていたドキュメンタリーや本をいくつか見直し、哲さん好きの友人たちに聞いても、記載や覚えはない。
おそらく今回が初めて我々が知った話ではないかと思う。
今回初めてこうやって公表されたということは、私には、あまりにも大事件だ。
自分が公表していくことと、自分の口から語られず、亡くなった後にこうやって誰かから語れるのでは、全くもって異なる。。。
CONTENTS
何を語り、何を語らずにいるのか
この姿は、マザーテレサにも似たようなものを感じる。
マザーテレサも、活動が広がっていくと、彼女に取材が入る。しかし、その度に、
「私を取材しても仕方がない。取材すべきはこの子たちです。」と、飢餓に苦しみ、病に苦しみ、身寄りもない孤独に苦しむ人たちのことを取材すべきだという。
決して自分のことは、語らなかった。
哲さんの自著本を見てもそう。
アフガン旱魃(かんばつ)の実態や、自然の恩恵を忘れていることに対する警鐘など。
決して自分のことは語らない。
哲さんの人柄
友人が見た哲さんの映画会のあとに、監督がきて挨拶があったらしい。
その内容の印象深かったことをシェアしてくれた。
いのちの両睨み
わたしはどこか哲さん思うと、先日読んでいた井筒俊彦の書籍に出てくる「両睨み」(意識の形而上学)や「二重写し」(意識と本質)とは、このことではないだろうかと、頭をよぎる。
それは何と何の両睨み、二重写しなのか。
・離言真如と依言真如
・マーヒーヤとフウィーヤ
・色と空
あえて抽象化するならば、世の中にある、矛盾するものを同時に捉える。
異なるものを異なるままひとつにみること。
(西田幾多郎の言う絶対自己矛盾的自己同一)
たとえば、わたしのいのち。
「自分はかけがえのない存在」
ということと同時に
「自分は70億の1つでしかないとてもちっぽけな存在」
である。
哲さんもマザーテレサも、いのちを賭している。
「自分は70億の1つでしかないとてもちっぽけな存在」ということをわかっているからこそ、大きないのちに、自らのいのちを賭している。
自分を語らないのもここにあるような気がする。
しかし、かといって、自分のいのちを蔑ろにすることも決してない。
そして、目の前で死にゆく人をみて、自分以外に誰が救うのか?
自分にしかない「自分のかけがえのなさ」も体現する。
こういう方をみると、本当に勇気をもらう。
人間にも、ここまで癒す存在になれる可能性があるのだということを。
2022年9月15日の日記