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日記「あじわい」

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いのちの両睨み#433

中村哲

今上映されている中村哲さんのドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯りを照らす」。

ここで、初めて耳にした話があった。

それは、哲さんの家族のことについて。
詳細は映画に譲るとして、これがあまりにも衝撃的だった。

この話は、今までも公表されていたものだったのかどうか、私はそこがどうしても気になった。

過去に公開されていたドキュメンタリーや本をいくつか見直し、哲さん好きの友人たちに聞いても、記載や覚えはない。
おそらく今回が初めて我々が知った話ではないかと思う。

今回初めてこうやって公表されたということは、私には、あまりにも大事件だ。

自分が公表していくことと、自分の口から語られず、亡くなった後にこうやって誰かから語れるのでは、全くもって異なる。。。

何を語り、何を語らずにいるのか

この姿は、マザーテレサにも似たようなものを感じる。

マザーテレサも、活動が広がっていくと、彼女に取材が入る。しかし、その度に、

「私を取材しても仕方がない。取材すべきはこの子たちです。」と、飢餓に苦しみ、病に苦しみ、身寄りもない孤独に苦しむ人たちのことを取材すべきだという。

決して自分のことは、語らなかった。

哲さんの自著本を見てもそう。

アフガン旱魃(かんばつ)の実態や、自然の恩恵を忘れていることに対する警鐘など。

決して自分のことは語らない。

哲さんの人柄

友人が見た哲さんの映画会のあとに、監督がきて挨拶があったらしい。

その内容の印象深かったことをシェアしてくれた。

・自ら武勇伝を語るといったことはなかった。寡黙な人。
・司馬遷などの本も読みつつ、クレヨンしんちゃんの漫画も全冊集めたいというほど大好き。雲の上の人というよりも、親しみやすい人間らしさがあった。
・洪水の時も自ら率先して、嵐の中、ショベルカーで河口の堰を取り壊し、水路に鉄砲水が行くのを防いだ。最初は現地のアフガン人は止めたものの、
自分はこの国のために死ぬ覚悟でやっている、君たちもその覚悟が試される時だと説き伏せ、現地のアフガンのスタッフは感動し、一緒に作業を進めた。
アフガンの男性は正しいことに勇気を持って取り組むことで称賛されるが、まさしく中村さんはその鏡のような人だった。
・映画の中のピアノは中村さんの好きなモーツアルトで、中村さんの三女が演奏したもの。

いのちの両睨み

わたしはどこか哲さん思うと、先日読んでいた井筒俊彦の書籍に出てくる「両睨み」(意識の形而上学)や「二重写し」(意識と本質)とは、このことではないだろうかと、頭をよぎる。

それは何と何の両睨み、二重写しなのか。
・離言真如と依言真如
・マーヒーヤとフウィーヤ
・色と空

あえて抽象化するならば、世の中にある、矛盾するものを同時に捉える。

異なるものを異なるままひとつにみること。
(西田幾多郎の言う絶対自己矛盾的自己同一)

たとえば、わたしのいのち。

「自分はかけがえのない存在」
ということと同時に
「自分は70億の1つでしかないとてもちっぽけな存在」
である。

哲さんもマザーテレサも、いのちを賭している。

「自分は70億の1つでしかないとてもちっぽけな存在」ということをわかっているからこそ、大きないのちに、自らのいのちを賭している。
自分を語らないのもここにあるような気がする。

しかし、かといって、自分のいのちを蔑ろにすることも決してない。
そして、目の前で死にゆく人をみて、自分以外に誰が救うのか?
自分にしかない「自分のかけがえのなさ」も体現する。

こういう方をみると、本当に勇気をもらう。

人間にも、ここまで癒す存在になれる可能性があるのだということを。

2022年9月15日の日記

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