悔い改めるから許されるのではない。
許されるから悔い改めるのである。
このことを深く考えてみたい。
もっと適切な言葉で表現すると、
悔い改めるから神に許されるのではない。
神に許されているから悔い改めるのである。
このことを感得したいと思う。
CONTENTS
ハンセン病病院でのこと
遠藤周作の親友の、井上洋治さんが「日本とイエスの顔」の著書の冒頭で、ハンセン病病院に行った話が書かれている。
まだ、良い薬もない時で、未知の病の怖さに、偏見も大変あった時のこと。
井上洋治さんは、ハンセン病で戸惑った振舞いをしたことに対して、深く自己嫌悪に陥った。しかし、あのとき、関わってくれた老いた病人は、それでもいいと、まるで言ってくれているかのような関わりだった。
こんなダメな自分でも、受け入れてくれる。だから、善く生きようと思った。
受け入れてもらうために、許してもらうために、善く生きようではなかった。
これを機に、井上洋治さんはキリスト教の道を歩み始める。
イエスを裏切った12人の使徒たち
これは、イエスを裏切った12人の使徒たちが、それでもイエスは受け入れてくれた、許してくれた、それと全く同じ話である。
井上神父の親友、遠藤周作は「私のイエス」で、イエスが捕まった時、弟子たちの心境を次のように語る。
これはイエスと弟子たちの関係のため、文字通り、神の許しがあって、弟子たちは悔い改めるようになった。
こうやってキリスト教が誕生していった。
東野圭吾の「手紙」
もう少し身近なケースを考えてみたい。
東野圭吾の手紙。
本作は、弟と2人暮らしの武島剛志は、弟の大学進学のための金欲しさに空き巣に入り、思いがけず家主のおばあさんを殺してしまう。
それ以来、弟の前には「強盗殺人犯の弟」というレッテルが立ちはだかる。
その苦悩の積み重ねは、兄への憎悪、恨みが生まれる。弟と兄との関係性の変化が描かれていく。
本作の中では、わたしが思うに、それこそ、弟と、遺族の方からの許しがあったように思う。
兄によって人生をめちゃくちゃにされた弟、大切な母を殺された遺族、どうやったら殺人者を許すなんてことができるだろうか。
できるわけがない。
でも、何年、何十年も罪滅ぼしをし続けた兄の振る舞いに、最終的に、弟と遺族の振る舞いは、「許し」があった方に思う。
君のことは許すことができない。けれど、謝罪の手紙を送り続けるのはやめて、もう君の人生を歩んでくれ、という、そういう行間をもったふるまいがあったように思う。
犯罪を犯した兄は、この時どう思うだろうか。
それこそ、生かされている、と思うのではないだろうか。
悔い改めるから許される。たしかにそれもあるでしょう。
しかし、悔い改めるを、より善く生きると読み替えるなら、
兄にとって、弟と遺族に許されることによって、はじめて、もっと深い意味を帯びて、より善く生きることがはじまるのでないだろうか。
井上神父にしても、東野圭吾の兄にしても、なにかしら、強烈な嫌悪感、罪悪感、それに苛まれるということは、我々の人生にも大小あるように思う。
そんなとき、それでも許してくれた人がいたならば、これがどれほどの救いになるだろうか。
そのときに、どれほど強く、生きなければならない、と思うだろうか。
神の許しとは誰の許しなのか、なぜ神なのか。
では、なぜ神の許しなのか。そして、神の許しとは、誰の許しなのか。
まず、神について、井上神父や遠藤周作は、神はいつも誰かの姿を通じて現れてきてくれるということを言ってくれている。
たとえば、井上神父でいえば、直接触れ合った目の前のハンセン病患者だった。
東野圭吾の手紙の兄は、弟と遺族の人であった。
そうやって、常に目の前の人を通じて現れてくるということだ。なぜなら、万人が、神の子、仏の子だからだ。
では、このことを、なぜ被害者からの許し、当事者の許しといわず、神からの許しというのか。
被害者からの許し、当事者の許し、と、たしかにこのケースでは言える。しかし、それに収まりきらない感覚があるということだ。
言葉を変えるなら、神の許しは、万人からの許しと言ってもいいように思う。
あの人は許してくれるけど、あの人は許してくれない、そういう話ではないのだ。
そりゃ、厳密には、弟や遺族以外からにも許されているかってそうではない。
でも、最も憎まれるべき人から許されるということ自体が、まるで生かされているような感覚に、生きろと言われるような感覚になる。これを神の許し、あるいは愛といっていいのだと思うのだ。
罪を繰り返してしまう人間について
では、許されたにもかかわらず、ずっーーっと同じ罪を犯し続ける人間はどうなのか。
罪を犯し、出所してからまた同じ罪を犯す。
私が思うに、これこそ、神の許されていることに気が付かねば、改めることができないのである。
私が簡単にいえることでは到底ないだろうが、それでもいうならば、
まるで罪悪感がないかのような人でも、心の抑圧したところで、罪悪感がある。けれども、それをもろにうければ正気でないために、自己の中から消している。
罪は誰もが犯す。犯してならぬ罪までも、人間は環境さえ整っていけば犯してしまう生き物であることを歴史が語り続けてきた。
そして罪は、一人の人間だけの原因とはいえないところが多分にある。
そうやって、その人を受け入れる(許す)ことで、はじめてその人に罪悪感が湧き起こってきて、悔い改めるようになっていくのではないだろうかと思う。
許しという名の愛と救済の行為
犯罪とまでいかずとも、我々が日常生きていく上で、いくつもの許せないものが出てくる。
しかし、その許せない気持ちは、実は相手を許せないのではなく、相手を許そうとする自分を許せていない。
相手を許せた時、どこか自分の心が晴れやかになっていく感覚があることを、わたしたちは知っている。
許すという行為が、真に悔い改めるようになっていくということを、心に刻めて生きていきたいと思うわけである。
2022年10月18日の日記より