自分らしさとよく言うが、その「自分」とは何なのだろう。
ロジャーズの言葉を借りると、著書「人が”ひと”になるということ(On Becoming A Peason)」(1963年)には、真にあるがままの自分を次のような否定文で表現している。
(1)偽りの仮面を脱いで、もっとあるがままの自分になっていく
(2)「こうすべき」とか「こうあるべき」といった「べき」から自由になっていく
(3)ひたすら、他の人の期待を満たし続けていくのをやめる
(4)他の人を喜ばすために、自分を型にはめるのをやめる
続いて次のような肯定文で表現する。
(1)自分で自分の進む方向を決めるようになっていく
(2)結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
(3)変化に伴う複雑さを生きるようになっていく
(4)自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気付くようになっていく
(5)自分のことをもっと信頼するようになっていく
(6)他の人をもっと受け入れるようになっていく
また、マズローからいうと、欲求段階説の少なくとも承認欲求までのものではないだろう。
トランスパーソナル心理学でいえば、もはや自分を超越して、自分という概念そのものが変わってくるだろう。
自分らしい「自分」というのは、実に奥深い。
そんな中、今日は珍しく外食。
お店の待合で、3歳くらいの男の子が楽しそうにはしゃいでいた。
その子どもをみて思う。
なんて純粋なんだろう。
この純粋さが、自分らしい自分といえるように思える。
以前、小松美和さんが「大人になっていくと本当はピュアになっていくはずなんです」と言っていたのを発言を思い出した。
禅にも「悟りとは、赤ん坊のようになることじゃ」という表現があり、聖書にも「幼な児のようにならなくては、天国に入ることはできない」という言葉があるように、無境界の意識状態の例として、幼児があげられる。
もちろん、覚った人と幼児では認識世界は違うため、異なるのだが、無境界な意識状態や純粋性は一致している。
そう思うと、よくいう自分らしさの自分というのは「純粋さ」がキーワードとしてあるように思う。
翻って自分自身をみてみると、講演の際はまだまだよそ行き感の硬い感じが残ってる。何も恐れることなく、もっとナチュラルにやればいい。
では、この純粋さをどう取り戻していくのだろうか。
ロジャーズが、カウンセラーに必要な態度としてあげている一致は純粋性と表現されることがある。
これはカウンセラーに必要な態度だが、通じるところがありそうだ。
一致は、自己概念と経験を一致させる。
つまり、考えていること、感じていること、言っていること、やっていることに気がついて、それらを一致させること。
そのために、自分に対して自分に共感的理解を向け、自分を受容していくことになる。
私も今の自分に気が付いて、今の自分を受容して、自分の純粋さを出していくことが自分らしいように思える。
2021年1月某日の日記より
2021年1月29日