今日はとある学びの場で、OBとして、入学説明会に参加した。
参加者の方が何を求めているのだろうかという視点をもちながら聞いていた。
私自身はどういう場だったのかを、最後一言だけ発言させていただいたが、場と仲間が大きかったと思っている。他者と一緒に対話して学ばせていただける機会が有り難い。
だが、厳密にはこれだけではない。
この半年を振り返ったときに、実はもっというと、
何より一番の学びになるのはこのリフレクションジャーナルではないかと思う。
というのも、これが経験学習を回すものであるからだ。
何かを学ぶ際に、わりと多くの方が偉大な先生に学ぶかを重視し、そこに自己の成長を期待するだろう。
私もそうだった。いや今でもそれを大事にしている。
ただそれは半分正しいが半分欠けている。
確かに良い師匠をつけることは、自分を発達させるために重要なことだ。
だが、陽明学にある「知行合一」とあるように、真の理解とは、自らの実践を経て、リフレクションを行い、次の実践へ活かすプロセスをもって理解していくのである。
先生からの学び、他者からの学び、本からの学びなんてものは、真の意味での知の1/10といってもいいのかもしれない。感覚的だが。
それほど、自らの実践とリフレクションが重要なのだと思う。
私自身、多くの発達理論と出会って、そもそも知能には「深さ」があることを思い知った。
自分がとある物事を理解した、スキルを身につけたと思っても、それは自分の発達段階での認識できる範囲の理解、自分が認識している範囲でのスキルであって、認識世界が拡張し発達していけば更に深みが続くことを知った。
この発達は自らの実践を通じて起こる以外ないのだ。
話がかわるが、先日友人が私にいった言葉が印象的でこれを書きながら思い出した。
私が読む本をみて、よくそんな難しい本が読めるなと。結局自分には難しくてその本は読めなかったと。
私自身も哲学書などは難解なので、その気持ちはよくわかる。
決して自分がその友人より知性が高いとも思わない。差はない。
どうも話を聞いていると、本と向き合う前提が違う。
私が難解でも読み続けられるのは、そもそもその書籍に答えを求めていない。
何か外に答えを求めてしまうのは、日本の学校教育や環境が影響している部分もあるのかもしれない。
私もいまだによくあるが、答えのようなものは、自己の内側から生起されるのであって、外にあるものは刺激やヒントと捉えた方がよいと思う。
真の理解は、実践とリフレクションの中で掴み取っていくものだからだ。
難解な書籍でわからないことが多くとも、それでも理解が進むところがある。
実践のヒントがある。
それで十分なのだ。
つまるところ、実践とリフレクションにまさる学習はないと思っている。
その意味で、私にとっては、このジャーナリングの営みを大事にしていきたい。
2021年3月5日の日記より
2021年3月6日