トランスパーソナル学会にて、学会が誕生した第一回大会時の吉福伸逸さんの講演が限定公開されていた。
日本の心理学を牽引してきた方の1人で、私自身書籍で吉福さんに触れてきたが、講演動画は初めてみた。とてもユニークな方だというのが、風貌や話し方から感じた。
内容は非常におもしろく、私にはまだ吉福さんとそれほど関わりも少なく、言葉の裏にある意味を深く理解できていないが、それでも話されていた内容は達観していることを感じる。
CONTENTS
トランスパーソナルの危険性
吉福さんがいっていた自分がないのに、自分を越えていこうとするのは危険というのは、忘れてはならない。
発達構造上、アンバーやオレンジが多い社会の中で、飛び越えていくことのリスクは高い。
もちろん、誰もが高次の発達もすでに持っていると仮説立てるのであれば、トランス状態の体感それ自体は可能なのだが、そこに伴ったマインドによる正しい解釈での定着、倫理感、美意識など、組み合わさった知能をもたねば、なにかトランス状態が特別なもので、現実社会をないがしろしてしまう捉え方さえも危険性を孕んでいる。
パーソナリティはないし、統合はない
おもしろかったのは、パーソナリティはないし、統合もないという発言。
この言葉自体、どういう意味で使っているのかよくよく前後の文脈を押さえることが重要なのだが、吉福さんのパーソナリティはないし、統合もないという、一見すると過激な表現に対して、どこか私の中で腹落ちするところがあった。
パーソナリティがないというのは静的なものではないということをいっている。
あるというならそれは動的なもので、生きているもの。
日常の中で変化し続けているものだと言っている。
この点はかなり納得がいく。
そして、心理学の中でよく使われる「統合」という言葉はないという。
自己というものは、分裂と拡散の中にありつづけるゆえに、統合はない。
私がクライアントに対して、あるいは自分自身がクライアントとしてセッションを受けてきた体験を通じて、実はこの感覚はある。
シャドーワークでのセラピーの1つ過ぎないが、私はゲシュタルト療法でいうエンプティ・チェアを用いて実践するのだが、無意識にある隠れた欲求、目的に気づいた際に、自分の中に矛盾する目的が共存していることに気付く。
今まで気づかなかった影、無意識に光を当てたことによって、初めて気づく自己の大切な側面があり、それゆえに一見すると否定的な言動にも肯定的な側面があることに気付き、受容でき、治癒が起きるわけであるが、これは厳密には統合ではないように思えている。
なにをもって統合というのかで、受容できたという点で統合といえるのかもしれないが、厳密にはそのような分裂したものはそのまま自己の中に共存し続けるので、統合は起きていないとも言える。
あくまで私の解釈に過ぎないのだが、そのような意味で統合はないと言えると私も感じていたところに納得感があった。
セラピーによって真の治癒を起こせるのか?
吉福さんがセラピストを辞めていった話は、私自身がセラピストであるがゆえに興味深かった。
セラピーという人工的な場というものでは、気付きが起こるくらいで、真の意味で傷を癒やすまでいっていないという。
自然界にいたほうがよっぽど癒しが起こる。
その点人為的に治癒を促すよりも、癒やす癒やさぬもなく、ほっておけばいいという着眼点もそのとおりかもしれない。
長い人類の歴史の中で、人為的なセラピーが生まれたのはほんのわずか数十年ないし100年くらいの話なわけだ。
一方、この吉福さんのおっしゃっていることは、高次の発達に関する言及のように思える。
この動画で拝見する吉福さんという実存のごく一面にしか触れていないのだが、
「セラピー自体がクライアントのためでもあったが、同時に自分の(関心の)ためでもあった」、
「ある特定のタイプの方とのセラピーはできた。ただ一部だった。」
という発言があった。
これがどのタイプのことを示しているのかわからないのだが、おそらく自分の関心という点でいえば、トランスパーソナル段階の方とのセッションも含むのではないかと思う。
発達が高次になればなるほど、発達に際して抱える葛藤や実存的リスクは高まるし、その点でいえば、セラピーという人工的なもの以外の要素も大きいように思う。
真に発達を促すのであれば、セラピー自身がクライアントよりも高次の段階にいる必要性もあるのかもしれない。
逆に言えば、そうではない段階の多くの人にとって、セラピーは非常に重要であると言えるのではないか。
いずれにしても、これらの多面的な見解・視点を踏まえた上でも、セラピー自体はなにかのきっかけにはなるし、たとえそれが表層の癒やしになったかとしても、現代社会にとっては重要な役割があると私は信じてやっていきたい。
2021年4月20日の日記より