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日記「あじわい」

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スピノザを通じて発達のホロン階層をみる#306

時刻は23時55分。

今朝、スピノザのエチカを読んでいた。

今日はその中で、特に感じたことを綴ってみたい。

完全と不完全

スピノザは、完全、不完全について、こんなことを述べている。

「人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に基づくよりも偏見に基づいていることがわかる」

たとえば、家を建てようとする。

多くの人ができあがったら完全と呼び、途中を不完全と呼ぶ。

しかし、どこまでできあがったら完全で、どこまでは不完全なのだろうか。

それは家というものはこういうものだとい偏見(=スピノザのことばでいう一般的観念)からきて判断している。

では、全く見たこともないような作り始めたとき、それはどこまでが完全で不完全かわからない。

スピノザは、自然物はすべて完全なのであって、完全、不完全の二分は人間の主観、偏見で決めているに過ぎないのだと言っている。

言語や意味構築活動による錯覚

曇りなき眼で世界をみるには、人間の言語や意味構築活動(思考)のもつ本質と限界を押さえねばならないとつくづく思っている。

世界は相互作用し続けている未規定なものから、私たちは言語を使ってその一部を切り取っている。

言語を活用した意味構築活動でさえも、人間という身体を通じて行われる限定的なものになっている。

完全や不完全というのも、言葉によってその概念を作り出し、便宜上判断してきたが、いつしか世の中には完全と不完全があるように見えてしまっている。

もちろん人工物を、共同作業によって進める際に、完全や不完全を持ち出してコミュニケーションをとることはとても便利である。

だが、自然物において、それが完全や不完全などあろうか。すべてがそのあるがままなのではないだろうか。

小なる完全性・大なる完全性というホロン

スピノザは、徹底して完全という言葉を使う。

個人的に好きな言葉は、「小なる完全性」「大なる完全性」。

不完全とは決して言わない。

スピノザには出てこないが、この表現は、ホロンという概念はまさにそういうことなのではないだろうか。

細胞はそれ単体で完全である。それが集まりできる人間も完全である。

そこに部分と全体というのは、比較の上で表出するに過ぎず、いずれも完全なのである。

人間の発達においても、どの発達領域(ライン)もホロン階層をなしながら開き出されていく。

それは、全体性を拡大していくだけであって、いずれも完全であり、不完全というわけではない。

もし不完全というならば、それは何かの基準に照らして、便宜上判断しているに過ぎない。

ゆえに、発達においても完全や不完全はないと言えるのではないだろうか。

こう思うと、自分の不完全さを受容するというのも実はおかしな話なのかもしれない。

なにかの基準に照らして不完全と勝手に思わされているのであって、我々は誰もが完全なのである。

善悪

しかし、こういうと、相対主義的な見解に見えるかもしれない。

そのとおりなのだが、それとは別に善悪という概念も忘れてはならない。

すべて完全なのだが、そこに善悪がある。

もちろん善悪というのも、スピノザいわく、完全不完全同様に、なんらかの基準に照らして決めているに過ぎない。

たとえば、イソギンチャクには毒があって多くの魚には悪であるが、クマノミにとっては善になる。

何が善か悪かは、視点や文脈によって異なる。

それも意味づけているだけであって、イソギンチャクには善も悪もなく、ただ完全なものとして存在している。

では、発達がホロン階層のように開き出されていくこと自体も、すべて完全なのだが、何かしらの善悪でもって、自分がどう生きるか決めていけばいいのだろう。

私にとっては、21世紀で大転換のストーリーを紡ぐために、大なる完全性を切り開いていきたい。

2021年10月16日の日記より

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