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日記「あじわい」

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“夢”の探求、仏教、フロイト、ユング、フロム、パールズなどを通じて#142

時刻は14時。
実家の庭にいながら本を読み終わり、ジャーナルを書いている。

鳥のさえずりが聞こえ何か会話をしているようだった。
3種類くらい違う鳥がいる。

風が気持ちよく、庭のある木の葉が揺れる音がなんとも心地よい。

ガーデニング歴何十年としてきた両親自慢のこの庭も、今になって生きた絵画と思える。

さて、ここ1ヶ月、夢に関する書籍を集めて読んできた。

まだかなりの量が残っているが、少しずつ読んでいくことにして、一旦ここらあたりに感じたことを残しておきたい。

夢の探求者たち

今回夢についての文献を集めたのだが、まず、夢に関心をもった方の多さに驚いた。

原始・古代人から夢に関する考え方があり、アリストテレスを始め、ギリシャ、ローマの哲学者たちも探求していた。

近世の哲学においても、デカルト、カントも夢の記述を残している。

夢の研究者としては、ブルダッハ、フィヒテ、マース、モーリ、ヴントなど。

神学においても、キリスト教での夢の捉え方もあるし、仏教においては、河合隼雄の書籍により明恵上人が有名ではあるが、それ以外にも法然、親鸞、道元も夢を通じて悟りへの道を探求している。

セラピーにおいては、フロイトやユングはもちろんのこと、ジェンドリン、パールズも夢を扱っている。

また、夢を実生活へ活用した方も多い。

有名な例としては、18世紀の音楽家タルティーニのソナタ「悪魔のトリル」は、夢から目覚めてから、夢の記憶を頼りにかきあげたらしい。

音楽家意外にも、シェークスピア、ゲーテも夢の重視していた。
発明家は、ベンゼン核を発見した科学者ケクレも、夢から着想をえたようだ。

黒澤明監督は、自分の見た夢を、そのまま映画にもしている。

上げれば枚挙にいとまがないのだが、当初、フロイト、ユングあたりがメインになるかと思っていたが、夢に関する関心が、古今東西あり、多様な解釈をしてきたことを今回深く感じた。

夢を見ることは、映画を見ること

夢1つとっても、世の中には、多様な認知がされている。

夢に関心がないし、見ないという人もいるし、夢を毎日日記につけている方もいるだろう。

私としては、夢にもある種の居場所を与えてあげたいと考えている。

人生の約1/3もの時間は寝ている状態であって、それを切り捨てるには、実に寂しい。

ケン・ウィルバーも、意識状態の中で、サトルの意識状態として、夢をみている状態も扱っている。

極端なことをいうと「もう1つの現実」のように扱ってもいいのではないかと思う。

たとえば、私たちは映画を見る。映画から何かを学んだりする。

医学生理学的研究においても、夢と睡眠の研究が進んでいるわけだが、夢と映画は脳としては似た状態になっている。

映画を見ているときは、前頭葉の機能が低下により意識の統制が低下し、ほかの感覚領域が刺激されているために、虚構と現実が交錯し、辻褄の合わないことに疑問を感じないようになる。

これはまさに夢を見ているときの現象と同じもの。

この点において、脳からしてみれば、映画をみることと、夢をみることは同じ行為と言える。

我々が映画やアニメから何かを意味づけ学ぶように、夢からも何か意味づけることで、私たちの人生を豊かにすることができると考えられないだろうか。

むしろ、夢というのは、その個人固有の無意識から生まれるもので、映画以上に大切なメッセージが眠っていると思うのだ。

夢占いと夢分析の違い

では、夢をどのように扱うかについて、大きく夢占いと夢分析の2つが挙げられるように思う。

違いをいえば、夢占いというのは、「占い」とあるように、象徴理論、統計学に基づいている。

ヒントを得る点において素晴らしいのだが、ここの限界点を述べると、その個人固有の事由を汲み取れないことにある。

たとえば、「蛇」は金運を象徴しているのだが、その個人が幼い頃に蛇の映画を見て怖かったこと、蛇と遭遇して怖かった経験があれば、むしろその時の恐怖感が夢として登場してきていると解釈する方が適切な場合もある。

その点、夢分析というは、その夢にどう意味をするかというもので、夢占いとは異なる。

が、今回書籍を読んで感じたことだが、いきなり意味づけといっても、難しいものがあって、最終的に自分が意味づけるものの、1つのヒントとして夢占いを活用するのも良いと思うし、ここをわける意味もさほどないと思う。

要は、夢からも多様な観点でその現象を捉え、今の自分にとって何かしらのメッセージを受け取り、活用することができればよいのである。

フロイトとユングの夢分析

夢分析を深めるにあたって、やはりフロイトとユングは2台巨塔のように思う。

1つの考え方として、夢には、起きている時より意識の統制がきかないことから、無意識に抑圧していた欲求や感情(シャドー)が出やすい。

今日実家のドラえもんの夢幻三剣士という映画の本があって、思い出したのだが、まさにあればのび太がああなりたいという願望が夢のなかに反映された物語なのだ。

これをフロイトは、願望充足理論として説明している。

ゆえに、フロイトの夢分析の仕方は、「自由連想法」を活用しており、その夢から連想することをあげていくことによって、意味づけを行う。

一方ユングは、どうかというと、フロイトの「自由連想法」と対比するかたちで「拡充法(増幅法)」として、より夢を詳細に浮かべ、現れる象徴を用いて意味を探求している。

これはユング自身が、無意識を個人的無意識と集合的無意識にわけ、集合的無意識において元型、太母を扱ったことに起因している。

また、当時の心理学の流れもあって、フロイトは還元的解釈で、ユングは目的論的解釈になっている。

還元的解釈というのは、夢やその連想に対して、なぜこの夢が出現したか、何によってこの夢が発生したかという解釈をする。

目的論的解釈というのは、何の目的で、何を伝えたくて出てきたのかという解釈を行う。

これらの違いがあるものの、夢をセラピーとして活用するという点においては、要は想像力をどう広げるかの着想の違いとして、両方とも大切にするのがよいと思う。

その点、エーリッヒ・フロムは、新フロイト派に属するが、フロイトとユングを上手く組み合わせて夢を扱ったように思う。

パールズのゲシュタルト療法

夢分析に比較して、パールズの夢を活用したセラピーは、一線を画するように思う。というのも、夢の意味の与え方に深さを感じる。

私自身もゲシュタルト療法を扱う身として、納得感があるのだが、パールズの夢の扱いは、分析というより、夢の世界を体験するワークをする。

「夢の世界で生きる」体験をしてみると言っていいかもしれない。

夢を過去のできごととせず、今ここで再現して、登場人物になってみて、メッセージを汲み取っていく。

この点、夢分析と比較して、より深いメッセージ性を引き出す事が可能といえる。

ただし、ここにはかなりセラピストの技量(直感力、演劇性など)が要求される。

夢がもたらす役割

最後に、夢分析について様々な事例をみて思うことは

・夢は補償であって
・心の平衡感覚を取り戻すものであって
・心のバランス、全体性を回復させるもの

であること。

これはフロイトもユング一致している。

夢について引き続き探求しつつも、自分自身が以前よりしている、ドリームジャーナル(夢日記)を丁寧にしていきたいと思う。

(参考までに)私のドリームジャーナルはこちらより

2021年5月3日の日記より
2021年5月5日

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