老子を読み始めたが、ものすごく面白い。
ケン・ウィルバーは、化学や生物学を専攻しながらも、老子を読むことで、思想、哲学、心理学へ転身し今のインテグラル理論にいたる。
老子がきっかけになる理由が少しはわかったように思う。
老子は、逆説の哲学に思う。
弱いが強い
負けるが勝ち
ゆっくりがはやい
というような逆説をついている。
だが、老子の真髄はここではなく、タオ(道)にある。
タオの真理は、仏教の空性、無分別智、悟りの境地と同じ。
その類似性から、道家の中で面白い説(老子化胡説)という、老子がインドにいき、釈迦に名を変えて仏教を開いたという説まで出るほど。
そして、重要なキーワードは、「無為自然」。
何も為さないで、すべてをなしている。
このあたりが、インテグラル理論の第三層の世界観なのだろう。
非二元という絶対的真理に対して、自分が勝手に一部を切り取り因果関係をつくり、自分がやっている、自分が起こした、自分が成し遂げたという思い込みを作り出している。
本当はあらゆる現象が相互作用しあっている。
仏教で言う「縁起」であらゆるものが何かの縁によって起こったり生滅し続けており、確固たるものはないという空性。
それを言語、思考、分別によって切り出しているに過ぎない。
究極残ってしまう私や私の心というものさえも、明け渡していくことが
「無為自然」の境地なのだ。
自分の思考ではなく、大自然の呼吸にあわせていく。
これをウィルバーが大いなる存在の入れ子でいう、心ではなく魂なのだ。
以上の認識が、私の理解、解釈、今の意識を通して生まれた産物なのだが、
第三層の意識構造への理解が進んだように思う。
とはいえだ、とはいえ。
ここの話で押さえておかねばならぬことがある。
この無為自然というのは、脱力系の話になりがち、なりがちというかそういうことなのだが、やはり意識構造があがることではなく、意識状態が非二元、つまり水平的な悟りへとなることなのだと思う。
ー(参考)ー
垂直的な悟り、水平的な悟りについては、ウィルバーコムズの格子を参照。
主に西洋心理学の成人発達理論で発展してきたものが意識構造(レベル)であり、垂直的な悟りへの道。
一方、東洋思想で発展してきたものが意識状態(ステート)であり、水平的悟りへの道
老子の言葉を引用すると
「学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損ず。これを損じて又は損じ、もって無為に至る」
つまり、学問をすれば言葉、知識により分別が増えていき、それはタオとは逆方向に進んでしまう。(無分別智から遠ざかる。)
言葉、分別を減らしていく先に無為の境地、悟りの境地があると述べている。
この言葉、分別というのは、言い換えると思考(マインド)のことを指しており、今に集中できない囚われている状態を、メディテーションによって整えていく意識状態の話に思う。
ゆえに、学を為さなくていい、学問しなくていいとなってしまうと、それはそれで、意識構造としての発達、つまり垂直的な悟りは起こり得ぬと思う。
もちろん、学を為し続けていては第三層への発達にはならない。
どこかで、マインド自体が限界をつくっていくことを深く広く自覚していくことによって、第三層へと垂直的な悟りを開いていく。
だが、ここで重要なのは、たしかに第三層へは思考が限界をつくるもの、ティール段階やターコイズ段階(通称ビジョンロジック段階)という第二層の段階は、むしろ思考(マインド)こそが、発達に欠かせないということ。
思考が垂直的な悟りへの道を歩ませてくれるということなのだ。
なぜかというと、たしかに思考、認知によって分別が増えていくのだが、一方思考、認知によって分別が減りもするからだ。
言葉をかえると、メタ認知が進み、ものごとが統合できるようになってくるからだ。
たとえば、歴史を学ぶこと。
わかりやすい例は、ユヴァル・ノア・ハラリのサピエンス全史を通じて、
人類は虚構をつくってきたことを理解する。
国境というのも人が人為的に引いたものに過ぎない。
今まで、私たちは日本人、韓国人と国境という概念で分別していたが、それは便宜上名付けをしただけであって、メタ認知すると、同じ地球人であることを認知することができる。
こうやって、本来地球人、あるいはホモサピエンスという1つだったものを、私たちは名付けによって分別していたことに歴史を通じて気付くことができ、知識、認知、思考は統合への道を進ませてくれるのだ。
これは1つの例に過ぎないのだが、このように思考(マインド)の鍛錬による認知の拡張が、分別を減らしていくことができる。
ゆえに、思考が垂直的な悟りへの道を歩ませてくれる。
ここまでの意味付け、認識がなくては、老子の話は単に意識状態の話に閉じたもの。
むしろ、意識構造としての発達をとめてしまうかのように勘違いが起きるような気がした。
このあたりは押さえておかね点に思う。
老子は本当に深いものがあり、老子をまだまだ探求したい。
2021年5月15日の日記より
2021年5月16日