嫌われる勇気をはじめ、アドラー心理学の中で語られるものに「課題の分離」がある。
これは、「自分でコントロールできるものと、できないものを分けましょう」という話。
極端な例、重力があることは自分がどうこうできることではないのに、それをどうにかしようと悩んでも仕方がない。
自分のコントールできないことに思い悩むことをやめ、自分にコントロールできることに集中しましょうということ。
元プロ野球選手の松井秀喜さんもこんなことを言っていた。
「観客が試合を見てどう思うかはコントロールできない。しかし全力でプレーをし、結果を残していればブーイングは拍手に変わる」
これも、自分がコントロールできること、つまりプレーに集中する、というまさに課題の分離の発言だと思う。
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課題の分離だけで綺麗に済まない?
しかし、実際のところ、わかりやすいものばかりではないことも多い。
たとえば、よくある話でいうと、部下がミスをしたことによってマネージャーである自分の評価も下がる。
子どもが問題を起こしたから親としての責任を問われる。
課題の分離でいうと、子どもがどうするかは子どもの課題。
でも、結果として、親としての責任もやっぱりある。
親としてやっぱりこうなってほしいと思うことはある。
でも押し付けになるのかもしたい。相手の課題に入り込んでいるのかもしれない。
そんな風に悩む人もいる。
責任の所在
そこで、課題の分離には、自分がコントロールできる、できないだけではなく、「責任の所在」という話も加えたい。
子供に対して、部下(上司)に対しても、責任の所在でいうと、たしかに相手の人生ゆえに相手の責任である一方で、家族として、チームとして、会社としてという責任で捉えることもでき、それは「共同の課題」として捉えることができる。
責任は、相手だけ、私だけではなく、私たちにある、と捉えることもできる。
共同の課題、と捉えながら、その上で、自分にできることはないかと考える。
これを健全な自責と呼ぶのではないかと思う。
課題の分離と自責・他責の4象限で考える
そう考えると、課題の分離と自責・他責の4象限で考えてみるとわかりやすいのではないだろうか。
こちら、横軸に課題の分離ができているか否か。
縦軸に、自責か他責か。
さきほどの話でいうと、縦軸は、共同の課題として捉えているから自責になれるし、捉えられていないから他責になる。
B:皮肉者
右下のB。
課題の分離はできているが、他責。
自分は悪くない。上司がこうだからできない。
それもわかる。よくわかる。
ただ、ここも共同の課題として捉え直すことはできないだろうか。(BからAへの移行)
システム理論にしても、仏教の縁起にしても、この世は相互作用しあってできていると考える。
上司がリーダーシップを発揮しないからだ。
だが、上司がリーダーシップを発揮しないようにさせてしまっている側面が自分にもあるのではないか。
もしかしたら自分の言動の何かによって、上司がリーダーシップを発揮できなくさせてしまっていることがあるのではないか。
と、自分も問題の一部。共同の課題と捉えることで、健全に実践することができるのではないかと思う。
これを理解しておかないと、課題の分離だからといって、自分のことだけをするのも悲しい話だし、自分が相手の課題に入っているのではないかと思う人も、共同の課題という話で関わっていって欲しいと思う。
C:過剰な自己責任者
一応4象限の左側も触れておくと、左側は、課題の分離ができていない。
左上のC。
課題の分離ができておらず、自責。
これは、過剰な自己責任を感じている人。
自分のせいで、部下がこうなってしまった。
うちの子がこうなってしまった。
それは果たして本当なのだろうか?
自責に捉えるのは素晴らしい。
だが、自分の要因以外にもたくさんあるわけだ。
他の要因まで自分のように受け取るのは過剰なわけで、課題の分離をして、必要以上に自分を追い込まないし、悩まない。
D:被害者意識の高い批判者
次に左下のD。
課題の分離ができておらず、他責。
ここは、被害者意識の高い批判者。
お前のせいで私がこんな風に言われてしまったじゃないか。
そう思えるのもわかる。
課題の分離をすることで、解決できることもある。
部下のせいでチームの成績悪くなった。
でも、それは上司もわかってるよ。
だから、チームの成績が悪くなったことを何も君のせいだと思ってないよ。
そして、共同の課題へともっていく。
でも、部下も、こうなってしまった環境要因が何かあるのではないだろうか。
このようにして、健全な自責の実践者へと促していけないかと思う。
課題の分離に関して、「共同の課題」「自責他責」を持ち込む。
課題の分離に関して、何か解像度があがれば幸いです。