時刻は23時20分。
MTGを終えて、今日の終わりを迎えようとしている。
今日は夕方とある友人の相談を受けていた。
その時話題にあがったのが「さめること」の重要性。
「さめる」というのは、そのものを云わば健全に批判する力である。
以前規夫さんからも冷めるは1つの重要な能力と話があったが、あるものに熱中している状況だと、なかなかそのもの健全に批判できない。
熱することを非難しているわけではない。
熱中することはとても素敵なこと。
そのものの魅力を感じて、ワクワクする高揚感もある。
だが、すべては正しく一部でしかなく、どのものにも限界や弱点や闇の側面はある。
魅了されるその対象物Aの底しれぬ魅力から、徐々に全容をつかめ、満たされ、熱から「冷めて」いき、対象物Aから離れてBに触れていく。
そこで改めて対象物AとBの差はなにか、客観的にAをみれるようになり、Aから「覚めて」いく。
進化のプロセスが、Fusion(同一化)、Differentiation(差異化)、Integration(統合)をたどるように、冷めることは同一化から脱するタイミングでもある。
こうやって「醒めていく」。
では、どうやって冷めていくことができるのだろうか。
今思うのは1つは、やっぱりコーチング的に関わっていき、客体化していくことに思う。
何がそれを熱中させているのか。
そこにどんな願いがあるのか。抽象化されれば具体は手段化する。
場合によっては、なにかの恐れがあることもあるかもしれない。
もう1つは、どこまでいっても、それを味わう尽くすことかもしれない。
先日も学歴コンプレックスがある友人に、学歴なんてのも虚構に過ぎないのだが、真に学歴を手に入れるから虚構であることに身を持って気付くことがようやくできる。
それも冷めるためには必要なのかもしれない。
翻って、私自身でいうと、コーチングや発達理論やインテグラル理論、心理学への冷めを徐々に感じ始めている。
もちろんこの探求をやめるつもりはないが、健全に批判できるようになりつつあるのだと、自分の中で思う。
そして、その対象は、自分自身に対しても。
2021年10月18日の日記より