時刻は23時50分。
難解であった吉本隆明の「共同幻想論」を読み終えた。
読んで感じたことを忘れぬうちに綴っておきたい。
CONTENTS
吉本隆明の戦争体験からくる心境
吉本隆明の「共同幻想論」には、タイトルにあるとおり「幻想」が1つのキーワードになっている。
それはユヴァル・ノア・ハラリがサピエンス全史で虚構(フィクション)と述べたものと、概念としては同じである。
もちろん、ハラリが探求してきたものと、吉本の探求は全く異なっており、吉本は日本の古典をもって紡ぎ出している。
河合隼雄さんが昔話から日本の集団心理を考察したように、吉本も日本ならではの国家の起源を考察していった。
どうして吉本は、この著書を出したのか。
どの哲学者にしても、思想家にしても、心理学者にしても、本人の個人的な体験や関心が起点となるもの。
私が思うに、発達理論を補助線に引かせていただくならば、吉本は戦争と敗戦を経験することによって、実存主的な段階に入っている。
戦時中と戦後での価値観の急変に、人が恐ろしくなったのではないだろうか。
つい先日まで殺せと言っていた人が、平和を説く。
それが不思議で仕方なかった。
それは他者だけではなく、自分自身に対してもだった。
どうして、自分は戦争に奉仕してしまったのか。
なぜ当時の体制を信じてしまったのか。
あとになって気付くが、そのときなぜ自分が信じていることに疑問をもてなかったのか。
では、信じるとはどういうことなのか。
こういった根底を覆すような疑問を抱くようになる。
ゆえに、何を拠り所にして生きていけばよいかわからなくなる。(=実存主義的段階)
そして、行き着いたのが、わたしたちが信じているものは幻想であるということ。
「人間の様々な考えや、考えに基づく振る舞いや、その成果のうちで、どうしても個人に宿る心の動かし方からは理解できないことが、たくさん存在している。
ある場合には奇怪きわまりない行動や思考になってあらわれ、またあるときはとても正常な考えや心の動きからは理解を絶するようなことが起こっている。
しかもそれは、わたしたちのを渦中に巻き込んでゆくものの大きな部分を締めている。それはただ人間の共同の幻想が生み出したもの解するよりほか術がないようにおもわれる。」
20歳のときに敗戦を経験し、そこから共同幻想論を出版するに24年の歳月を費やしている。
個人幻想、対幻想、共同幻想という幻想を軸に、この頃には、国家や個人が何であるか、再構築することを提示する力強さにあふれている。
国家形成のプロセスからみる幻想の紐解き
吉本が展開する国家形成のプロセスが面白い。
「罪の自覚」「倫理の発生」→「法の形成」→「国家の形成」というプロセスを経る。
こう思うと、真に国家が幻想であることを体感として得るには、罪や倫理もどのような前提がおかれて罪や倫理としているのかに気づき、幻想であることに腹落ちし、それを成り立たせる法もまた幻想であること紐付け、芋づる式に腹落ちする必要があるだろう。
「色即是空空即是色」というものを、概念のみならず体感として掴むには、一定の知性を必要としていると改めて思う。
幻想という束縛から自由になるために
本書の中では、幻想から解放される術が書かれていない。
吉本のその後の書籍に書かれているのかもしれないが、ここについていくつか解放するための術を述べていきたいと思う。
その前に、これこそ発達理論や東洋思想、それらを統合する形のインテグラル理論がもつ本質的な価値、人間を幻想という檻から解放させるための叡智である。
そして、発達理論、東洋思想、インテグラル理論を補助線にするならば、身体、心、魂を涵養させていくことにある。
先に述べてように、幻想から目覚めるためには、一定の知性(心)が必要である。
また、知性(心)だけでなく、身体が捉える何らかの違和感、直感的(=魂)に捉えることができる違和感、こういったこと起点に積み重ねることが重要になるだろう。
また、個人幻想は、対幻想(二者間)と共同幻想(集団)に相互に影響をうけることを考えると、これまでと全く異なる対幻想と共同幻想に出会うことも、個人幻想が揺らぐ機会になるだろう。
こういったことを書くたびに、今一度、自分の触れていないものへ触れていきたいという欲求が自分の中で強く現れる。
2021年10月26日の日記より