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日記「あじわい」

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精神性/霊性(Spirituality)とは何か。サブスキル考察と、信仰(Faith)、宗教(Religion)の違い#345

精神性/霊性(スピリチュアリティ)という言葉は実に多様な意味がある。

これは日本において、スピリチュアリティの認識が実に乏しく偏見に満ち溢れ、世間一般でどのように認識されているか。

ということも関心があるし、

自分自身はどこまでこれを多次元的に捉えているか。

ということも大切であり、

自分の勉強不足な部分が多分にあるのだが、今日は後者(自分自身がどう捉えているか)についてジャーナリングを通じて少し整理していきたい。

精神性/霊性(スピリチュアリティ)の5つの定義

ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」の書籍には、スピリチュアリティという言葉が多様に使われており、その主要な意味を4つにわけている。

①どのラインでもその最も高次のレベル
②別の一本のライン
③状態の至高体験
④特定の態度

これに、「インテグラル心理学」にて、⑤「①を足し合わせたもの」という定義を加え、5つに定義している。

もう少しわかりやすくいうと、

「①どのラインでもその最も高次のレベル」
は、どのスキルにおいても、高いレベルになると、より微細な感覚を捉えることができるということ。

たとえば、スポーツにも神業とあるように、サッカーや野球選手がボールの回転を見極めたりできる。

「②別の一本のライン」は、精神性/霊性として1つのスキルとして存在していること。

「④特定の態度」は、開かれた心や愛といった態度のこと。

1つのスキルとしてある精神性/霊性(スピリチュアリティ)とは具体的になにか

では、「②別の一本のライン」として、1つのスキルとしてある精神性/霊性(スピリチュアリティ)とは、具体的にどのようなことなのか?

一言でいうならば、「物理、理性(言語)を超えたところで、何かを掴み取ること」。

俗にいう、空気感、オーラ、霊みたいもの。

・この職場空気悪いな〜。
・このアーティストがステージたった瞬間変わった。
・この道なんか怖い。
・神社にあるこの岩すごい神々しい
など

さらに具体的に掴むために、いくつかのサブスキルにわけて理解していきたい。

とはいえ、先程定義したように、そもそも言語を超えたものをあえて言語化しにいくという矛盾を孕んだ試みなのだが、理解を深めるために行いたい。

精神性/霊性の4つのサブスキル

サブスキルは以下の4つ。

主に、西田幾多郎「善の研究」、鈴木大拙「日本的霊性」から得た洞察を枠組みに自己の実践と重ねて綴りたい。

参考

鈴木大拙「日本的霊性」を通じて#265

日本最初の哲学書となる西田幾多郎「善の研究」を読んで#98

 

(1)莫妄想(=自分の思考や雑念を静めるスキル)

莫妄想とは、「妄想(≒執着)することなかれ」という意味。

深く入った瞑想時の自分の状態を、私は「聖なる自己」と名付けているのだが、これがウィルバーでいうと「コーザルの状態」「ウィットネスの状態」「ノンデュアルの状態」にさらに細分化できる。

これは、聖なる自己にアクセスするという感覚ではなく、どちらかというと、思考や雑念を静めることにより、立ち現れてくる感覚。

そういった思考や雑念を静めることも1つのスキルと捉えることができる。

(2)純粋経験(=無分別の実存に触れるスキル、直感でありのままに捉えるスキル)

思考や雑念を静めると、言語をつかわず分別されていない(=無分別智)、現象そのもの(実存)に触れていく(=純粋経験)ことができる。

これ自体は、どうやって行うかといえば、莫妄想によって、聖なる自己のまま、そのものに触れていくことです。

莫妄想は個にとどまるが、純粋経験は世界と出会い、非二元へ開こうとする営み。

ここで感じるものは、西田幾多郎は、言葉が出てくる前の刹那的にある一瞬を純粋経験と呼んでいるが、私の中では、広く純粋経験を捉えると、聖なる自己のまま、感じるものが言語として現れるものも含めている。

感じるという行為自体も、言語を伴わないもの(=西田幾多郎のいう純粋経験)と言語を伴うもの(=私のいう広義の純粋経験)がある。

言語を伴うものでも、分析的でなければ思考ではないので、純粋経験と捉えることができると考えている。

ここには、自分と他者の区別がなく、あえて区別をつけるならば、他者の喜びが自分の喜びのように溢れ、他者の痛みが自分の痛みのように感じる。

(3)大地性(自然とつながるスキル)

鈴木大拙は、大地にかかわりのない生命はない、大地が自分の存在の底であるという。

私の中では、自然とつながるスキルと言えよう。

私自身は畑や山登りを通じて、自然から受け取るエネルギー、癒やし、浄化される感覚。
畑の枯れ果てた土をみて、感じる痛み。
こういったもの感じるスキル。のこと

(4)開かれた心で愛に満ちた態度(愛するスキル)

そして、(1)〜(3)の結果、愛に満ちた態度が現れる。

より多くの人、生きとし生けるものへの愛が、広く深く育まれる。

愛するというサブスキルといえよう。

以上4つである。

改めてまとめると、

精神性/霊性(スピリチュアリティ)というスキルは、「物理、理性(言語)を超えたところで、何かを掴み取ること」

具体的には、

(1)莫妄想(=自分の思考や雑念を静めるスキル)
(2)純粋経験(=無分別の実存に触れるスキル、直感でありのままに捉えるスキル)
(3)大地性(自然とつながるスキル)
(4)開かれた心で愛に満ちた態度(愛するスキル)

というサブスキルにわけることができる。

精神性/霊性が発達するとはどういうことか

このように細分化したとして、こういった精神性/霊性が発達するとはどういうことか。

一言でいうと、より広く深く捉えることができるようになっていくのだろう。

ウィルバーでいえば、「サトル」「コーザル」「ウィットネス」「ノンデュアル」という順に開かれていくことでもあるし、それぞれの状態で知覚できることが豊かになりそうなイメージ。

このようなことがいえるのではないかと思っている。

Faith(信仰)とはなにか。Spirituality(精神性/霊性)の違いは

続いて、精神性/霊性を理解するにあたり、Faith(信仰)との何が同じで何が違うのか?

この問いも必要だなと感じており、それを言語化してみたい。

こここそ、私の勉強したことがない領域が多分にある。

参考

ジェームズ・ファウラーの「信仰発達理論」のまとめ#260

 

信仰とは

ジェームズファウラーの「stage of faith(未邦訳)」を読んだときに、ファウラーの言葉であったのが、信仰は誰もがあり、宗教や超越者を信じることではなく「根源的な価値や力を希求する」と述べてあった。

信仰は、信じて仰ぐ。

つまり、物理や理性を超えたものをどのように信じるのか。

たとえば、生まれる前の世界や、死後の世界、神などのこと、ひいてはこの世界をどのように一貫したないし統合したイメージとして捉えているのか、意味づけているかということ。

これを信仰といえばどうだろうか。(あくまで私なりの意味づけ定義)

あえて精神性/霊性をわけるのであれば、物理や理性を超えたものを感じ取っていくスキルを精神性/霊性とし、信仰は、そういったものをどう信じているか、意味づけているか、その豊かさのスキルと言えるかもしれない。

信仰と精神性/霊性の違いは、スキルが育まれえば育まれるほど、本質的には、同じものになっていく。

Religion(宗教)とは何か。Spirituality(精神性/霊性)の違いは何か?

ここに関して言及しようと思ったが、信仰と同じく宗教との違いも整理したいのだが、そろそろ力尽きた。笑

寝たい。笑

ただ、「A Theory of Everything(インテグラル理論)」に書かれてあるよう、
・ナローリリジョン(狭い宗教)=個としての自己に慰めを与えようとする宗教
・ディープリリジョン(深い宗教)=深い精神性、深いスピリチュアリティ

とあり、ここも捉え方、意味づけが豊かになれば精神性/霊性、信仰と同じになるだろう。

2021年11月24日の日記より

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