レヴィ・ストロースから始まる構造主義、その後ミシェル・フーコーを代表とするポスト構造主義。
本当に構造から抜け出せることはできないのだろうか?
そんなことを問いとしてもっている。
ここでいっている構造、システムにも大小様々なものがあり、人間がつくるミクロなシステムは変えられるだろう。
それはたとえば、制度、法。
しかし、メソなシステム、マクロなシステム。
いわば人間という生物の宿命からくるシステムや、人間をこえた貨幣経済、資本主義といってシステムは、そう簡単に変わるものではないだろう。
構造主義は、端的にいえば、人間がどう考えるかは、その人が生きるシステム(構造)によって無意識に形作られてしまっていると考える。
しかし、逆にいえば、自分たちが生きている複雑な社会システム、構造をきちんと把握し、欠陥を見つけることができたならば、それを修復してもっと健全な社会をつくり出すことができる。
ところが、その作り変えようという意志自体が、とらわれている構造から生み出されたものに過ぎず、元の構造を越えたものを作り出すことができないともいえる。
だが、哲学のこの対話の中には、発達という観点がやや薄いのではないだろうか。
発達理論の概念を用いるなら、人間が発達をとげ、後慣習的段階の後期くらいの成熟を遂げた人間であらば、完全に構造から抜け出すことはできずとも、客体化し距離をとることもできる。
そうならば、なにか構造にゆらぎをもたらせることはできるのではないだろうか。
マンデラやガンディーがそうであったように。
そんな希望をもって、私は人間が生命を地球を健全なものにしたいという欲をもって、探求していきたい。
2021年12月3日の日記より