対人支援者(コーチ、カウンセラー、セラピスト)において、最も重要なことの1つは、「テーマをどう捉えるのか?」という点にある。
・それは、そもそも問題なのだろうか?
・そのテーマを支援することが、はたしてその人の人生にとって真に価値あるものなのだろうか?
こういった観点をもたずして、セッションを進めることは、短期的にはクライアントのためになりそうに見えても、長期的にみたり、取る視点をかえてみたりすれば実は不幸に繋がりかねない。
コーチングやカウンセリングをもう一段深く磨くにあたっては、「テーマをどう捉えるのか?」これを深めることが重要に思う。
たとえば
たとえば、「やりたいことを見つけたい」というクライアントに対して、そのまま受け取ってやりたいことを見つけるセッションを進める。
ここに、
・やりたいことがない=問題
・やりたいことがある=良いことである
といった前提がおかれているわけだが、果たして本当にそうなのだろうか?
「やりたいことなんてなくていい」といった考えもある中で、クライアントの問題意識のまま進めて本当によいのだろうか。
別の例をあげよう。
「この会社を、創業した父や今の社員のために存続させたい」というクライアントがいてセッションを行うとする。
ここにも、この会社が存続すること=よいこと、という前提のもとセッションが進んでいるのだ。
しかし本当にそうなのだろうか?
その会社が及ぼす社会の影響を多面的にみた際、もしかしたら我々はこの事業はもう閉じるべきであり、会社を閉じること、終わらせることが重要な役割かもしれないのに、そこに疑えず、クライアントの問題意識のまましていいいのだろうか。
さらに別の例をあげたい。
クライアントが「子どもが不登校になっているので、親としてできることを考えたい」というテーマをもってきた。
とても素晴らしいことじゃないかと思う。そして、そのまま進める。
しかし、ここでも問いたい。
不登校=問題なのだろうか?
ここまでくると、不登校=問題でしょ。と思う人もいるかもしれない。
しかしあえて、疑いたい。本当にそうなのか?
つまり、私たち対人支援者は、クライアントの問題をそのまま問題として受け取り、問題解決に支援する必要もあるかもしれないが、一方で、これが問題ではないかもしれないことを同時に突きつけることも必要ではないかと思う。
そして、ここに疑問を持てるかどうかは、自分自身がどれだけ自身の前提を疑えているかに関わってくる。
魚にとっての水
では、どうやって前提を疑えるのかといえば、1つ大きな方針として、自己の内面のみならず、外面に意識を向けることが重要になる。
たとえば、代表的なものでいえば、構造主義、ポスト構造主義、社会構成主義あたりの学習が必須不可欠ではないかと思っている。
私たちは、知らず知らずのうちに、絡め取られているものがある。
それを人は、構造、システム、ナラティブ、ディスコース、信念、マトリックス、色んな言い方をしている。
たとえていうならば「魚にとっての水」のようなもの。
知覚することは難しい。
構造主義の例として、飲茶さんがわかりやすい話を出してくれていた。
たとえば、挨拶。
自分の弟、あるいは自分の子どもが、挨拶をしない人だとしたときに、あなたはどうやって諭すだろうか?
一般的には
「まともに挨拶もできなかったら、社会に出てから困る」
というだろう。
しかし、この発言自体が、資本主義システムの影響が無意識に出てしまった回答になっている。
「働いてお金を稼いで生きる資本主義システムにおいて通用しないからダメだ」という、自分が生きている社会システムの価値観で答えている。
挨拶をなぜ返さないといけないか。本来なら様々な可能性がある。
たとえば、「挨拶とは、今日というかけがえのない一日に、お互い出会えたことを喜び合う行為である。だから人生を感動的に楽しみたいなら自分のためにも積極的に挨拶をするべきであろう。だが、もし君がそんな気分でなければむしろ挨拶はするべきではない。自発的に他者と今日という奇跡を分かち合いたいときに行えばいい。それが挨拶だ。」
といってもよかったわけである。
問題を問題として受け取らない
先程の不登校の話もそうである。
不登校=問題という価値判断は、今の社会が形成したナラティブに過ぎない。
日本の教育を受けない、不登校だからこそ育まれるものがあるかもしれない。
それが問題だと思えば、上記のことは目に入らなくなる。
ゆえに、対人支援者は、セッションのテーマとして、
「はたしてそれが問題なのだろうか?」
「それが問題だと思うならば、どのような構造やディスコース、ナラティブから作り出されたものなのだろうか?」
ここにもっともっと慎重になるべきだ。
時間が許されるのであれば、それを踏まえた上で、テーマを設定したい。
前超の虚偽
では、クライアントが「問題だと思ってたことは、こういう構造やディスコースからきてたんだ!」と気付いたとしても、とはいえ「自分にとってはやはりこれが問題なのである」と帰着することもある。
私も「それは、あくまで今の社会の構造やディスコースからきてるので、気にしなくていいです。」と言いたいわけではない。
その構造やディスコースから抜け出しましょう。と促したいわけでもない。
むしろ、「魚にとっての水」といったとおり、魚が水から離れて生きていくことができないように、わたしたちも何かしらの構造やディスコースの影響を受けないでいることはできないのではないかと思う。
にもかかわらず、なぜ構造やディスコースを認知することが重要なのだろうか。
それは、どんな構造もディスコースも、光と闇があるし、それが普遍的な真実ではないにも関わらず、所与のものとして生きてしまっているところにある。
それに気が付かない限り、同じ問題を再生産してしまう。
ゆえに、構造やディスコースを認知することは、この世界にある別の物語を人生に招き入れる機会になるし、ひと度客体化できれば、あえてその構造やディスコースの中に従事して、より健全なものへと働きかけることもできる。
このようなことから、単に構造やディスコースを捉え、そこから脱却を促したいのではなく、この世界の捉え方をより多次元的に捉え、人生そのものをより多様で豊かなものにするために、重要であるといえる。
ゆえに、それが本当に問題なのだろうか?
こういった問いを大事にしたい。
2021年12月10日の日記より