今朝は雪がつもり、朝のランニングは、いつものコースがまた新しい景色のようで、寒いながら嬉しい気持ちになった。
さて、ここ数日、我が家恒例のクリスマス会に、私含めて4人兄弟たちが一堂に実家に揃っていた。
社会構成主義の観点から、関係性の中で立ち現れるものはあり、久しぶりに兄弟といると、学生時代の感覚が見事に蘇ってきた。
兄と将棋をしていると、どうしても勝ちにこだわりたい自分がいる。
そして、その勝敗を見守る父もいて、父に自分が勝ったことを報告して褒められたい自分がいた。
当時の感覚そのままである。
兄との関係、家族の中での関係において、学力が劣っていた私は、どうしても兄に勝ちたいし、それを親に認められたいと思っていた。
このコンプレックス自体は、自分が国家公務員の試験に受かったことや、大学院へ進学したことなど通じて、解放された感覚はある。
だが、それが消えたかといえば、自分の中に消えてはおらず、息づいており、適切な言葉で表現するならば、支配的になっていないという感覚なのだと思う。
以前の私なら、なにかもう自分は克服したものであれば、そんな欲はもうないと言い捨てたように思う。
しかし、私自身が、人間というものを、より多面的に捉えていきつつあるために、今日のような感覚でいる。
それは発達理論やインテグラル理論が言っているような発達というのが含んで越えるという発想に基づいていたり、
構造主義、ポスト構造主義、社会構成主義といった観点やそれを通じて歴史的な事件(アウシュヴィッツ強制収容所や20世紀までの戦争の数々)をみれば、人間が実に弱く脆いものかを感じてきたからでもある。
年の瀬とあり、今年一年を振り返り、大いに変化した有り難い年だったと思う反面、私も依然、様々な欲、煩悩の塊であることもしみじみ感じている。
その欲は、消えぬことはないが、どのようなリスクや悪影響を秘めているかに自覚的になり、支配的にならぬ形で日々ゆらぎながら過ごし、かつ持つ欲は大いなる欲で、大欲清浄であろうと思いたい。
2021年12月27日の日記より