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日記「あじわい」

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じいちゃんの三回忌#139

時刻は13時。

ものすごく強い風が吹いている。
じいちゃんが千の風になっているんですかという具体に風が強い。

今日は朝からじいちゃんの三回忌だった。

本当は去年だったけど、コロナで延期して、今年もコロナだったんだが、さすがじいちゃんにも申し訳ないのもあって、対策のもと実施することになった。

改めて、法事というものは、個人の冥福を祈る神聖な場だと思う。
お焼香、読経、五感を通じてその場にいて感じることがある。

一方、我々にとっては、その場で一堂に会する喜び、意義もあるように思う。

こんな機会じゃないと会えない親戚もいる。
会うと、家族、親戚という身近な共同体感覚を思い出す機会になる。

亡くなるということで、こういう場もふくめてじいちゃんからの贈りものなのかと思う。

もちろん、故人のためでもある。
黒澤明監督の「生きる」を思い出す。

この映画で、お通夜の場面、故人と関わった方が一堂に会して対話することで、故人が立体的に浮かび上がってくる。

人は関係性の中で、とある環境の中で、とある課題の中で表現される側面もあるから、死して初めて、その方の多様な面に触れることができるのかもしれない。

これはもちろんお通夜だけでない。

今回も、じいちゃんの三回忌を機会に、じいちゃんの昔のアルバムを見る機会になった。

白黒写真で、私は初めてみたのだが、こうやって対話することが、じいちゃんを想う場であって、家族の絆をつくる場であることだと改めて感じた。

ここまで書いてみて、これ1つとっても、私の認知がたち現れていると想う。

なにか1つ1つの行事、儀式そのものには、豊かな意味があって、個人がどう捉えるかが、その人の発達・意識状態に立脚している。

ただ慣習的に行うことでは感じ取れぬものがあり、まして世間一般の考えなどによって不当に周縁化されては実に寂しい。

これは、なにも行事、儀式だけではなく、今目の前に起きている1つ1つも同じことがいえるのだと思う。

目の前に起きる現象の奥にある輝きは、自分の発達や状態次第なのであることを、今この瞬間も感じる。

2021年5月1日の日記より
2021年5月2日

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