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日記「あじわい」

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時刻は16時40分。

発達理論を一緒に探求する仲間から、時間と発達理論の関係性をきかれた。

今日は「時間」についてジャーナリングしていきたい。

人間の発達とともに変化する時間感覚

発達理論の中で語るならば、時間感覚も1つのスキルとして発達していくのだろう。

以前、映画メッセージを見たときのジャーナルでも書いたが、

映画「メッセージ」を見て、時間と自我について考える#124

時間は一次元のものではないという研究はある。

ゆえに、パラレルワールドや可能世界論も展開される。

『可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』を読んで#114

 

1つの仮説に過ぎないのだが、たとえばビル・トーバートは、機会獲得型から発達していくごとに、裁量期間がのびるようにしている。

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たしかに、ビジネスの世界でも、管理職になって来期の予算を考え、経営者になり中期経営計画やビジョンを描くことから、想定する時間軸は伸びていくため、しっくりくるところもあるだろう。

狭い時間感覚が引き起こす問題

私たちはどこまで時間軸をのばして捉えることができるのだろうか。

ジョアンナ・メイシーは、狭い時間感覚の代償が、次の5つの問題を引き起こすと言っている。

①短期的な利益が長期的なコストより重要視される
②大変な事態が起ころうとしているのが見えない
③時間を狭くとらえることでますます視野が狭まる
④問題が未来に先送りされる
⑤狭い時間の捉え方は私たちの生きる意味や目的を感じにくくする
ジョアンナ・メイシー、クリス・ジョンストン「アクティブ・ホープ」P195

わかりやすいものをいくつかピックアップしたい。

①短期的な利益が長期的なコストより重要視される

典型例は、タバコ、酒、コカインなど。

目の前の魅力の虜になり、短期的な利益が、そのために発生する長期的なコストよりも重要視される。

一個人のみならず、社会のこともいえる。

私が以前働いていた地方自治体にしても、ファイナンスの概念はなく、改修費というコストを想定されず公共施設が建てられてしまっていた。

ビジネスにおいても、石油をはじめ、資源に限りがあり、長期的には破壊を招くリスクよりも、目先の利益が重視されてしまう。

②大変な事態が起ころうとしているのが見えない

アクティブホープの中でも、タイタニック号が例示されている。

沈没の数日前、船長は無線で氷山に関する警告を受信していたが、スピードを落とさなかった。

目の前の処理に追われていて、警告を伝えなかったとのこと。

大きな事態が起こることが見えていない典型例だ。

地球のすべての人が平均的な西欧人並の暮らしを営むことは、地球が3〜5個分くらいの資源が必要であるにもかかわらず、消費するライフスタイルや経済は根強い。

④問題が未来に先送りされる

こちらもあらゆるところに起こっている。

ビジネスの世界でも、企業が安全性や保守管理の予算を削ることもそう。

政治の世界なんかは、その権化。

アクティブホープにはこんな事例が書かれている

化石燃料と、それを使って製造されるものの価格が不自然に低いのは、私たちが未来の世代に押し付けているコストが費用として含まれていないからなのだ。

私たちが未来の世代に対して犯している大罪の1つに、核廃棄物の生成がある。

時間感覚を育むために

こういった問題にふれるたびに、私たちがいかに狭い感覚ゆえに多くの問題を引き起こしているのかを痛感する。

では、時間感覚を育むためにどうすればいいのだろうか?

時間感覚と自我は切り離せない。

言うまでもないが、自己に囚われている限り、自分の寿命の範囲でしか捉えることができない。

ここで、「家族」というのが、大きな役割を果たすのではないかと思う。

本来私たちは地球の一員であるのだが、なかなかその感覚を持てない。

だが、誰しもが家族の一員であることはもてている。

子どもとつながる

アクティブホープの中で、私の好きな一節がある。

20代の間ずっと、トムにとって一番大事なのは人生を楽しむことであり、世界が抱える問題にはあまり興味がなかった。自分の生活だけで手一杯だったのだ。

トムは30代の初めに結婚し、それから間もなく妻が妊娠した。超音波スキャンで赤ん坊を見た時、自分が何者かという彼の認識はガラリと変わった。

彼の目の前に、自分が父親になったという証拠があったのだ。

トムにとって、生まれて初めて、自分が死んだ後のことが重要になった。

彼は、自分の寿命を超えた時間枠でものごとを考えるようになり、もはや自分を、他者とは切り離された個人とだけ考えるのではなくなった。

自分を、もっと大きなものの一部として経験するようになったのだ。家族である。

トムにとっては、個のアイデンティティが、家族によって大きなものに根を下ろすことになった。

どこからどこまでが家族なのか?

家族は未来に向かって伸びていく。

では、私たちはどこまでが家族なのだろうか?

寿命で捉え、肌で触れることができるのが、子どもの子ども、孫までかもしれない。

しかし、その大事な孫も、子を産み、その次の世代の子どもも子どもを産む。

どこかで線引きができるだろうか?

北アメリカ先住民のホーデノショーニーは、部族会議で重要な意思決定を下すために協議するとき、「それは7つ先の世代にどう影響するか?」と問うのが慣例になっている。

そう思うと、子とつながることは、人類はみな親戚であるという感覚を育んでくれる。

祖先とつながる

家族は子どもだけではない。

体質的に子どもができない人や、子を持たない価値観もある。

だが、必ず誰もに祖先がいる。

日本でも祖先を祀る神社があり、伝統的に祖先を大事にしてきた。

祖先はいつでも、私たちのことを気にかけてくれる。

私も亡き祖父や祖母を思うと、パワーをもらう。

母をみれば、母にとっての母と父の話をするたびに、心が温かくなり、精神的な強さを得ているように思う。

親や祖父母、祖先が私たちにしてくれたギフトを感じれば感じるほど、私たちも未来の世代にギフトを贈りたくなるし、見守っていたいと思う。

コミュニティがもたらす感覚

抽象度を高めれば、家族だけでなく、コミュニティというのも立派な自己の感覚を広げてくれるものだろう。

だが、ここ半世紀で、コミュニティの変容していっている。

家には洗濯機があり、娯楽用の電化製品もあり、あまりにも快適になり、互いを必要とする感覚が、失いつつあるようにも思う。

そう思うと、家族という普遍のコミュニティとつながることが、誰もが時間感覚を広げてくれる大事なものに思う。

2021年11月6日の日記より

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