人間とはなにか。世界とはなにか。
私とはなにか。心とはなにか。魂とはなにか。
人生とはなにか。自分の生きる意味や使命はなにか。
哲学的な探求を進めていくと、知れば知るほど、わからなくなるという現象がある。
たとえば、素晴らしいセラピーを受けて、「あ〜そうか、これが本当の自分の声だ」と思う。
しかし、冷静に視点を変えれば、これは今の社会の構造、ディスコースによって作られたものではないか。
と捉えることもでき、実はそれが本当の声かどうかわからなくなる。
もっというと、そもそもこの「本当の声というものがある」、「心の声」なり「魂の声」なりもあるというナラティブの上になりたっている。
それ自体を客体化すれば、実は本当の声というものがあるという前提をおいた1つのナラティブにすぎない。
そうやって、今まで自己に対して、あるいは他者も含めて、人間というものに対して、もっといえば世界というものに対して、これまでの何かしらの判断を停止(エポケー)していっている。
こうやって私は、
「そうかーーー!!これだーーーー!!!」
と熱狂的にものごとを探求したり、内省したりするときと、
「これ自体も1つのナラティブだから。意味付けだから。だからそれ自体を手放してもいいんだよね。」
と冷静で安心して温かく俯瞰して見守るときもある。
こうやって私の探求は、あと5年、10年は少なくとも続き、なにか大きく違った世界観を形成していくような気がしている。
数多くの哲学者、心理学者の思想・理論体系を読んでも、それが心や魂を構成概念として、1つの解釈を与えてくれるものの、信頼できるものかというと難しい。
矛盾するものも数多くある。
たとえば、フロイト派によれば、自我を強靭にすることが重要な課題である一方、仏教の教えでは自我に執着すること否定する。
どちらも部分的には正しいのである。
ゆえに、大切なのは、その部分的に誤っている中に、ひとつの真理を求めることにある。
と、かっこいいことを書きながら、私の知性はそんなに優れた性能ではない。
それゆえ、先人たちの叡智を、自身の体験とゆっくりつき合わせながら、自らの考えを紡ぎ出していく。
5年ないし10年と書いたものの、それは一定のフェーズの話であって、こういった営みは永遠に行うだろう。
それは、答えを出すことが重要ではないからである。
問いと向き合い続けることが大切なのである。
人の心や魂を説明したい。人生とは何であるかを説明したい。
そう思い、それ自体が自分の原動力になっているものの、そんな簡単なものではないことを痛感している。
問いと向き合い続けることは、命や人生への畏敬の念をもつためであり、世界を人生を豊かに生きるためでもある。
答えの出ない問いとどう付き合っていくのか、逆にこちらが問われている。
それを引き受けていきたい。
2022年1月16日の日記より