いつもクライアントとの対話が学びになる。
今日二人で話をしていて、「自己の透明化」がキーワードとして残った。
自分を客体化して、この自分は、どういう目的や信念をもっているのだろう。そのような目的や信念は、どういう文脈から生まれてきたものなのだろう。
それを捉えることができると、「そうか、こんな体験、こんな環境下にいたら、そうなって当然だよね」と理解できる。
と同時に、これから先は別の体験があるし、同じものが続くわけでもない。
となると、自分というのは長くみれば絶えず変わっていく。
西田幾多郎の言葉を借りると、
「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」
もう少し私なりに言い換えるのであれば、
「個人あって意識あるのではなく、意識あって個人あるのである」
個人(自分)をつくっている意識そのものに捉えることができれば、自分というのは流れの中で変わりゆくもので、はっきりしたものでないために、自己の透明化といっている。
このことは、自己だけではない。
自己を含め、意味構築活動そのものが人間の産物ゆえに、様々な言葉、概念が透明化していくと言える。
この話の流れで、今日のクライアントさんも、自身の所有の概念が溶けつつあるという話しになった。
クライアント固有の話になってしまうので、別でわかりやすい話をいえば、イギリスがアメリカ大陸に渡った時、ネイティブアメリカンから土地を奪ったり、売買しようとしたわけだが、ネイティブアメリカンからしたら土地をそもそも所有するという考えがない。
土地は自然のものであって、自分たちが所有できるものではないと思っているから、イギリス人に土地を買わしてくれといっても何を言っているのかわからなかったらしい。
我々が今当たり前のように土地を所有しているが、所有という概念も、人間がつくった産物に過ぎない。
こういうことを繰り返し考えていくことを、仏教では唯識となり、行き着くのは空になるわけで、何か自分の悩みや葛藤や囚われから開放されていくことに繋がる。
じゃあすべては空なので、土地を所有しないのですか?と言われるともちろんそうではない。
所有という構成されたゲームを理解した上で、そのゲームを行う。
ゲーム自体を認識できずにゲームにはまり込むことと、ゲーム認識できた上でゲームを行うとでは全く異なることになる。
ゲーム自体を認識できると、時にゲーム自体を変容させていくことができる。
まずは、日常にある色んなゲームに気づいていきたい。
2021年3月25日の日記より
2021年3月27日